この世のネガイ

2019年8月22日

この世での我々の願いは何でしょうか。

裕福であること、他人からそしりを受けないこと、まずは命の危険がないこと、学校の成績が良いこと、仕事が上手くいくこと、異性からも同性からももてること、お金に不自由しないこと、病気にならないこと、スポーツがうまくなること、自然をめでること、好きな時に働いて好きな時に遊ぶこと、兎に角酒を飲んで酔っぱらう事・・・
憎いあいつを陥れること、敵を完膚なきまでたたきのめすこと、政敵を失脚させること、恋敵を打ちのめすこと、ひどく憎い相手を殺すこと、完全犯罪を行う事、好きな時に好きなように暴力をふるえる事、兎に角生き物を食べないのに殺すこと、被害を受けた本人では飽き足らず一族郎党を八つ裂きにして墓も暴いてしまうこと・・・
言ってしまえば、七難即滅、七福即生が上手い言い回しですね。

具体的にはもっとたくさんあり、いちいち挙げてこれを達成しようとすると一生目的を持って過ごせそうです。
上記のように、社会的にまずいだろう、と言う事も暗い”願い”として少しは胸に上ることがあるはずです。 余談ですが、悪いことが平気で出来るのもある意味興味がありますが、出来そうもないですね。 根性無しかも。
それはそうと、良い趣味をお持ちです、立派なお仕事ですね、と言われているのに本人はなんだか納得がいかなかったり、どうも本当はやりたい事ではなかったりすること多数でしょう。
”愛”を言った同じ口から”おのれ、我が神を信じぬとは、皆殺しだ!”というのは宗教戦争の歴史を見ると笑えるくらいに多し。 同じ人とは思えぬほど。

いろいろ考えてみて、善悪は意外と後付けかもしれないし、”良い人”は無理しているかもしれないし、”悪い奴”は自分は誤魔化していないかも知れぬ。
しかし、”かも、かも”とか言っていても話は進まないので、いろいろな事象や行動や感情もいれて考えると、つまり、我々には

盲目的な(あるいは凶悪とも言ってよいいかもの)生存への執着がある、

と言う事です。 これは本能中の本能であり、絶対にだれでももっております。 だから心臓はうち、血は流れ、体温は上がるわけであります。 しかし、この本能はたびたび社会制度や思想や宗教と言ったもので、弱められたり、薄められたりします。 または文化、文明がそうでしょう。

これは生存の執着の連続性を上手く崩す方法を持っていると思えますが、ぎりぎりのところでやはり生への執着は心理的に裸だと、そのエネルギーを発揮し、時には超人と呼ばれる力を発揮したりします。 これは執着と執着はぶつかり合う事が必ずあり、それを上手く調整している安全弁みたいな働きをします。 だから、その意味では実は、暴論かもしれませんが、何をやってもさほどの事もないかもしれません。 これは、急に話が変わりますが、怨霊が憎い相手を何百年もたって、その子孫に祟りを行い、成仏したという話は日本各地に起きているようです。
殺されたから殺して胸のつかえをおろした、すっきりしたという典型です。 しかし本人でなくその関係者、子孫でも対象となる、というのは納得できないような、なんとなくわかるかも、という感想を抱きます。

そして、肉体的には、大多数の動物がそうであるように、子孫をまず残そうとして若い時は過ごします。 人間は若い時に失敗すると財産でもってそれを果たそうとします。 だから生の意欲は最初、性に向かうのであります。 異性に興味が無いのは、この点かなり、”制御”を社会からされていると言えるでしょう。 またその願いのためにはかなりの努力をしているというか、させられております。

そしてこのような肉体的な本能とは別の本能として、

生存またはこの世への出現の意義を果たそうとする、

というものです。
それは、やはり許し許されこの世に出てきたと思った方が良く、それは各個人差があるようですが、この世は指向性をもって進化・変化していっているようですので、ここにその意義として共通の課題と個々の課題があるようです。 それは価値の創造でもあります。 もっというと、神と通常呼ばれる存在の事業への参画であり、大抵は美の創造であります。 それは堅く言うと、たびたび天命と呼ばれます。

以上のように、”願い”はありますが、じゃあ何をやっても良いのですね、と言う感じになりますが、真如の世界ではないこの現実の世界ではそれは違う。 ここを間違うととんでもない魔道に落ちるわけであります。
上記の願いの種類で、最初に書いたのは”命を生かそう、伸ばそう、進化させよう”であり、続いては願いではあるが、”命を断とう、つぶそう、退化させよう”というものであるからです。
簡単に言えば、命というキーワードで見た善因善果、悪因悪果であります。
しかし、難しいのは、命を断とうという、存在の命を絶つのはどうなのか、と言う事です。 これを果敢に行うのが、本当の菩薩でしょうか、そんな気がします。

で、まとめると
生存本能 (自分だけ、好きな人も、好きでない人も、社会全体も、国全体も…と広がる)
創造本能 (美を創ろう、みずからの課題を果たそう、天命を果たそう・・・・となる)
があると言う事でしょう。

つまりこの世の願いとは、これらの”本能”を満たそうとする活動なのであります。

次はこの本能をとりまく環境ですね。
(※ いろいろ偉そうに言っていますが、まだまだ私は未熟であり、思いつき吐き出し日記です。)

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