マザーテレサの憂鬱

2019年8月22日

マザーテレサさんの献身的な奉仕の精神と活動は、立派な事だと言う事は事実そう思います。 しかし、なんだかちょっと辛そうだなと言う感じを受けておりました。 そしてそれはやはり厳しい生活なのだなあ、というような単純な事を感じておりました。
しかし、その彼女が実は神の存在を年を得れば得るほど疑っていた、という内容の本を読みました。 深刻な悩みです。 えっ、そんな、という感じでしょうが、ポイントは先達、つまり指導者がいなくなった、ということらしいです。

最初神と呼ばれるまたは思われる存在の声が聞こえ、喜んでいたはずですが、そのうちぱたりと聞こえなくなる。 信仰が薄れたまたは疑義が発生した、というわけではないですが、そのように思うのも無理はなし。辛かったのでしょうがついにはキリストの存在の意義もキリスト教徒としてはぎりぎりの疑問に追い込まれていたと。 でも信仰告白としては正直でこの点も立派だと思いますが、辛いですね。

霊性が上がれば上がるほと守護霊の声は聞こえなくなり、次に守護神の声も聞こえなくなりついにはまさしく犀の角のように一人進め、と大先達がおっしゃるように道を行かなくては行かないのでしょう。
しかし、そこにはさらに先を行く大修行者がいる、行けば行けほど偉大さが分かるが、近づけば近くづほど遠いのがわかる。 しかし、時には道を示し、時には指導を行い、時には課題を与えまたは”良い子だ”と褒めていただく、というようなより完全な霊性浄化を目指して慈悲持て進む存在あり。 このような存在が本当はキリスト教では大天使とかの位置、立場かなと思うも、そのような教義では無かったのかも。 (キリストをとおしてみるより完全なる神という考え方はしないような感じだ。)
仏教の場合は、古仙道を見つけたと述べておられて、それが仏道だ、と仏陀が宣言されているので、仏陀を導くマハーなる仏陀(または神)がおられたことを予感させます。

とまあ、偉大なる信仰者の告白から俗人なる私が恥を押して論理を立てれば考えられます。 しかし、大抵の人(私も同じです、当然)は神の声が聞こえるまではいきませんから、まあ、焦らず行きましょう、と考える者です。 (もうすぐの可能性はまだあるみたいですが。)
でもその先には厳しくもあり優しくもあり、命があるいは肉体で躍動し、あるいは霊体で存在し、存在と非存在の垣根をついには越えて、大宇宙なる世界が広がるのだなあ、と思う次第であります。 そうすると無限も永遠も怖くないねえ。 なんとなくそんな感じ。

マザーテレサさんのお話は、成瀬雅彦さんというヨーギの方の本の一節からです。