真釣りと花の嬉し

2019年8月22日

現実の生活は大変厳しいものですが、私も本当に同じです。 特にこの経済状況で仕事は選べなくて赤字仕事でもやらなくてはならない、というものです。 さっさとアチラニカエリタイとかちらり思わなくもないですが、でもいかに苦しくても、納得できなくても、いろいろ意地悪されても、勘違いしても・されても何とか生きていかなくてはならないとか、思わず弱気大爆発。 また怒られそうだ。

と言いながら説教みたな言を垂れるという傲慢さを許されよ。 高邁な理論と俗なる現実の乖離はまだ埋まりませぬ。

と前節の愚痴はおいておいて、マイミクさんの他の人の苦難をどう見ればよいか、という問題はスピの世界でいろんな本や講演会とかで語られていると思います。 如何に苦しんでもその人のカルマの解消であるし、道端で倒れてとそのままにしておく方がよいのです、という指導者もいるようです。 こんなのに学んだらとんでもないですね。 そして、前世の悪いものをこの世でなくすという事は、人生の単なる一部分でしかないのに、それを過大に考えておりますし、ほっておけと言われても実際は眼の前で倒れたり苦しんだりすると思わず助けるでしょう。 あ~あ、余計な事をした、ということになります。 さあ、困りましたね。

縁起とか無我とか意識構造または自由意志の有無などなど仏教哲理で考えることは可能ではないかと思いますが、日本人なればこそ分かるとらえ方があります。 しかしなかなか深いです。

人はよりよき社会作りとよりよき人に成るように向けて日々生活をしていますが、本体の魂は実ははじけたいので、ときどき鎮魂というのをします。 魂を本来の座に戻す作業です。 メソッドはほかにもあるでしょう。 そしてこれがいい悪いではなく人の性質というものみたいです。
そんな性質を持っているが故か、正しき生活である”真釣り”であるべきものが、思わず
”魔釣り”となる可能性があります。 さあ、”祭り”と思って神を斎祭り、その指導や提案(命令ではない)に沿って神人仲良く歩いてきたのに、実は横で笑っているのは、魔でした、ということになります。
あらま、こりゃ困った。 しかし、神は沈黙せずです。

マツリが魔釣りになっていたら、まずは小難を与えます。 おい、まつりちがいだよ、と。 そして、それでも気がつかないと、おいおいまだ違うぞ、と中難を与えます。 それでもだめなら大難(一家離散とか、離婚とか酷い状態)が与えられ、でも気がつかずとなると、次は破滅なのですが、ここで神の愛あり。 ”情けの苦”を与えるということです。 要するに死んであの世で再出発の準備をするわけです。 情けの苦が無いと、死より苦しい状態に置かれるそうな。
そして、真釣りをしていると、日々楽しく生きがいがあり、清潔で、誠実で、自分と他人に親切でといわゆる日本人がした生活です。 そして自らと社会の創造を”足らざるを喜び持ちてたらすという花の嬉し”という状態にすることでもあります。 文字の感じで感覚的にその状況が分かると思います。

さて、ひとさまの苦難への対応ですが、これは苦難に合うとは原因は簡単ではないけど、苦難に遭っている人が、魔釣りを間違ってしているかもしれません。 その場合です。(食べ過ぎて腹壊したなんてのは、簡単な小難) よって、それを目にして対応する意識がある人ならば、それを放置するのは、その人の真釣り外しを見過ごし、自らも真釣り外しになっているかもしれません。 そして同胞として神の仕業とは言え情けの苦を取り払うことにより、花の嬉しをその困った人に与えた事になります。 その困った人は情けの苦を花の嬉し(間違っていたんだという自覚)と考えて、よい経験をしたということになります。 双方が良い状態ですね。

この考え方は、大きすぎる苦とか一方的にやらている”民族浄化”という殲滅作戦などの緊喫な問題には対処しきれないかもしれません。被制圧側が”魔釣り”とは言えませんから。 そして、抑圧している側の真釣り外しの大魔釣りを考えるとぞっとします。

それはさておき、現実に銃口の前にさらされている場合、情けだ花だと何をのんびりしたこと言っているんだというのことでしょうが、だからこれはまた違う方法があるでしょう。 断固としての行動も必要だと思います。 しかし、我々としては今出来る事を出来る環境下でぜひ花の嬉しを与えたいものです。 ちょっと緩いかな。