罰あたりな推理?
お盆がそろそろ始ります。 もともとの起源はゾロアスター教の行事にあるだとかそれが支那に行って、道教や儒教の似た行事と融合し、ついに仏教に取り込まれてお経なども作られ、それが日本にわたりもともと神道の御霊祭と融合していった模様。 でも、本朝ではもうしっかりと日本の行事になっているのでぜひこの美しく現実に霊的な救済になる(と思われます)行事は続けていきたいものです。
そのゾロアスター教ですが、光と闇、善と悪の二元論の神を唱えついには善側が勝利するようです。 予定調和ですね。 そして多くの神々が日本神道のようにでてきます。 一神教的な考えは世界では以外とすくないのでしょうか。
それはさておき、神様とはどのような存在かな、と考えるとき、契約の神、愛情の神、親のような神、神の神のもとで役割分担をしている神々(その中には時として人間に全然興味なし!もおられるようで)、罰を与える神、常に祝福を求める神、取引の神・・・と、常に愛の神と言うことはないようです。 ただし、神の神、大神とか根本神とかは愛とか、そのような思いや感情というか方向性をもっておられるようだ。 そこはほっとする次第。 要するに親と子の関係または厳しくは師と弟子みたいなのではないかと愚考しておる次第。
それで、日本の神様は八百万の神と呼ばれるように、多くというか無限でしょうこの意味はたぶん、沢山いらっしゃる訳で、何をもって神なのか、誰が決めたのか、自己申告ではないでしょうが、なんにせよ、”神”という存在がその大神から役割分担があって、界、(日本神道界とか)、場、というような活動世界があられるのかなと。 長くなりましたが、ようするに役割分担をするのですが、意外と役割拒否というかサボタージュかでやるべきことをやらなくなることが仄聞ですがあるようです。 これは、高邁な(しかしたぶん何か足りない)理論では捕捉できない内容でありますが、神道では禍津神とか呼んで、要するに”まがった、失敗した”で二元論的に端からダメではなく、変化してしまったと言うことなのだと関連文献に明記されておったり教えれたりします。
なるほど、と言うことで知識としてはいいのですが、この禍津神が人間に興味を持ち、何らかの干渉をするとすればどうでしょう。 人間の霊が取り付いたなどの騒ぎではなく、人間と神なので人間側は全然敵いません。 神の時間感覚は人間とは、人間と蝉以上と言うか比べもにならない時間感覚の違いみたいなので、ちょっと気になるやつがいる、と言うだけでどっかりと影響を受けてとしたら、しんどいことです。
そんなこともあるように聞いております。 まとまりがない話でした。
でも何があって役割放棄したのでしょうか? 謎です。 そしてこの謎は深そうだ。
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