もう一人の自分、ドッペルゲンガー

2019年8月22日

夏の風物詩?”ほんこわ”を見ておりましたら、やはり不思議はいろいろあるみたいですが、その中に上地くんが主演していたものは、ドッペルゲンガー?というものかなと思いました。

世の中に似ている人が三人いるということです。 これは昔のことですが、総武線の船橋あたりで、隣の車両に乗ってきた背の高い人がちらと見えて気になったので注意して見ると、自分とそっくり!! 年格好といい、メガネをかけてまた服装のセンスも同じようで、思わずひと駅分まるまる見ていた次第。(車両の端っこにいたので見えたのだ。)
その方は次の駅で降りたのですが、あとをつけようかと思ったくらいで、パーマンの”コピー”か!というくらい。驚きです。

そして不思議なことに、仕事である大手の電話会社に知り合いを訪ねて行ったさい、その方のアシスタントということで紹介された人に会ってまたびっくり。その前に”MUさんぜひ会わせたいんだよね。”とか知り合いが言っていたのが妙に変な予感あり。 つまり、また”そっくり”な人だったのです。 思わずお互いの顔を見つめ合いましたから。
その後その人は私に会いたがらないそうで、こっちは会う気満々だったのになあ。

それはさておき、そんな事で似てい居る人は確かにいる、のですが、ドッペルゲンガーはまた別で、確かに他の自分らしい。 世界でも離魂病とかいわれているし、その他の”自分”が一体何を考え何を求めているかは個々に違うでしょうが、反面教師のように思います。 落ち込んでいたら元気づける他の自分が現れたり、悲しんでいたりすると慰めてくれる他の自分がいたり、調子にのりすぎていると自制を促す自分がいたり、世の中よくできているなと思います。そんなときは、本当の自分の感情がでるので、おもわず方言ではなしたり考えたりしております。
この話はもっと拡大して考えられそうです。 というのも、それに会うと死んでしまうという報告もあるようなので。
また落語でも、粗忽者八っあんか熊さんが、自分が長屋に帰ってくると”自分”が死んでいるのを発見。 ああ、俺が死んでいるどうしようと思わずひとを呼びに行く、しかしどうしようとしてあわてている自分は何なのか? とかいう話があったような。粗忽者だから自分が死んだのも忘れてあわてたと言う感じだったか。 しかし、これはひどく仏教説話っぽかったです。 つまり”我とは何か”と言う事で。

船橋で会ったのは、その近くに住んでいた女性とのお付き合いの件で考えていたと時、仕事はその件の仕事の将来性にかなり疑問を持っていた時でした。 いま考えるとなんだか将来の方向性と示してくれたのかもしれません。