ばあちゃんの説得

2019年8月22日

ちょいと物語風に

やはり連休の中日だ。 夜も8時近くになって千葉発の逗子行きの快速電車は4割型の乗客を乗せて発車時刻を待っている。

千葉のさきに用事のあった俺は、やや疲れた体をロングシートに埋めた。 いっぱいひっかけたいところだ。 発車時刻を告げるメロディーが流れた始めた、とその時、ちょうど向こう側に座っている年齢は65歳程度であろうか、野菜の詰まった籠を下において座っているおばあちゃん、と言う言葉が似合う方が据わっていたが、その隣にずいずいと車内に入ってきた男がどん、と座り席を占めたのだ。

うん、乱暴な奴だ、と思い見ていると、やおらその男、年齢は20歳前後だろうか、が

「すみません。この電車は自殺の名所に行きますか?」 とそのおばあちゃんに尋ねる。
社内のみながやや大きな声で乗客もすくなかったので声が遠くに届いたのだろう、その若者の方に多くが振り向く。

その若い男の頭は坊主頭でガタイもよく柔道かラクビーでもやっているような体をしている。 そして、
「行きますか?」 と再度さらに声を張り、持っていたリュックを抱くようにして開き始めた。

いかん、凶器を出すのでは? とっさの状況にこちらは身構える。 でかいやつなのでもめると面倒だな、とか頭の中でこれから起こるかも知れない悪い予想をしている。

そしてその男がリュックから出すものを注目… しかし、刃物ではないようだ。 なんだ、ボールペンか。 しかし、ボールペンでも振り回せば十分な凶器だ。 事態の推移をみながら悪い事態に備える。 そして、さらにその男がリュックから取り出したのは、封筒。
ふ~、暴力的ではないか、とやや気が抜ける。

「いまから遺書を書くんです。」

男が言う。 おいおい。
「僕は今から自殺するんです。 生きてても面白くも何ともないんです。」 とややもつれ気味な口調だ。
しかしこんな話をしていると、その男の近くに座っていた何人かの男女がそそくさとその場を後にしたのを見逃さなかった。 フン、腰抜けが、と思っていると、男に隣に座られたばあちゃんのお説教が始まった。 まあ、危害は加えそうもないが、そのばあちゃん、そんなことを気にしている様子もなく

「あんたねえ、そんなことを言っちゃだめだ。 お父さんとお母さんが心配するだろうが。」

「いや、僕なんか両親から嫌われているんです。 今日もなんにも良いことがなかったんです。 だからこのまま生きててもしょうがないんです。」

「何を若いのに言っているの。 兄弟は何人?」

「お姉ちゃんが2人。 おねえちゃんは好かれているんです。 そして!!」

「何?」

「僕は身体障害者で手帳をもっています。」 とその手帳をすばやく取り出した。

「何をいっちょるの。それが何なの。 頭がいいとか悪いだけでなく、あんたのような健康な体が一番よ。」

「あんた、ごはん食べた?」

「ちょっとだけ食べました。」

「あのねえ、から揚げとミカンがあるけど、食べるかね?」

「はい。」 あらら、そうなんだ。 まあ、落ち着いてきたんだな。 とみると、端っこに座っていた若いお姉さんが、スマートフォンに忙しく何か打ち込み始めた。 どっかに投稿? すぐ分かるね。

「あのねえ、これお食べ。」と唐揚げを二本、みかんを5つばかりその男に差し出す。 お礼をいうという事は知らないのかね。 まあそんな状態でもないだろうが。
そしてそのから揚げに武者ぶりつく。 おい、自殺はどうなったとか、意地悪な事は言わないでくれという感じだろうか。

ばあちゃんの説教は続く。

「あんた、腹へってたんでしょう。 いいかい、男子はしっかり食べてにこにこしているもんだよ。 あんたのお母さんもお父さんもそんなあなたが好きなはずじゃよ。」

まだから揚げにむしゃくしゃとかぶりついているが、そのうち二本とも食べ終えると、みかんを剥き始めた。 腹減っているんだな。

「ええかい、しっかり食べてね、そしてにこにこしなさいよ。 それが基本じゃよ。特に男子はしっかり食べんといけんよ。 わかった。 あんたはまだまだ生きんにゃいけんのよ。 親より早く死んでいいわけないじゃろう。 笑っているといいことあるよ。 今日がだめでも明日があるよ。」

ミカンも二個ほど食べ終えた男が、やおらばあちゃんに握られた手にすこし驚くようであったが男の掌を見たばあちゃんいわく、
「ほら見なさい。 あんたの生命線はこんなに長いじゃあないか。 こりゃ長生き長生き。しっかり生きんといけんね。」

「でも、見てください。頭脳線がこんなに短い!」 これには聞いていた周りもやや失笑か。
でも本当に落ち着いてきたようだ。 いい感じだ。

「まあ、頭がどうこうじゃあない。 しっかり食べて、にこにこよ。 腹減っていたら碌なことがないからね。 そして笑顔。笑顔。分かった。」 この言葉を以降に噛んで含むように繰り返す。 こちらもおなかがすきそうだね。

すっかり自殺だどうと言わなくなったので、一安心みたいで、あとは、名前はなに、とかどこに住んでいるのとかの会話がつづく。 男はその後降りるといった駅で降りて行った。 だいぶ元気になったかな、という印象を残して。

この体験はどうでしょう。 命は大事、理屈はどうこう無い。 とにかく大事だよ。 お腹を空かしてないかい、笑顔でね、笑顔が大事よ、良く生きるためにね。シンプルだけど、こんな所が本当があるのだろうか。
日本のお母さん、と言う感じだね。

・・・

「大丈夫でしたか。 何か危ないものを出すように思いませんでしたか。 ちょっと身構えていたのですよ。」

「いやいや、そんな感じはなかったから大丈夫と思いました。」

「いや、でもあんなに打ちひしがれている男を立ち直らされましたね。」

「腹がへっちょったんだよ。そうおもってやらんにゃねえ。」

「ご立派なことをされましたね。」

これはいい子ちゃんのおれの言葉だ。 偽善者みたいだな。

しかし、実はおばあちゃんの言葉はこの俺にずっと突き刺さっていた。
心弱い、物を苦にする俺に突き刺さり、難しく考えすぎるな、気楽に生きなよ、と。

そうか、有難う。 危ないのはこちらだったか。助かったということだろう。