誰から聞いたのだろうか 美の創造

2019年8月22日

唐突ですが、南無阿弥陀仏です。

南無=帰命するというか全托する、一切の疑いなし、疑いの心すら疑わない自然法爾、任せきる

阿弥陀仏=アミターユ、アミターバ 無量の光、無量の寿命、もともとはどこかの神様か
密教の曼荼羅でも重要な位置をしめます。 共通した言葉のアミタを採って使っている。

また法身、報身、応身の三身論では報身となる。 とてつもなく偉大だが、理論としての仏ではない、血も涙もあるという事になろうか。 新義真言宗では大日如来と同じということになるから決めつけられないかな。

真言はオン・アミリータ・テイゼイカラウン 小咒
大咒は長くて、ノウボウアラタンノウ・・・と。 実は全部覚えていたりする。でも今は真言は避けるようにと言うことで滅多に唱えず。 うん、ちょっともったいないぞ。

このあたりまでが共通認識でしょうか。 まあ細かな学問的な内容はさておき、さてさて、般若心経でも、仏説とつけて読む流儀というか派、とつけないこともあるようですが、多くの経典、大乗は基本的に非仏説と思っておりますが、この阿弥陀仏に関する内容は、実は、仏陀釈迦牟尼の直接の言葉ではないかという説があるようです。(非仏説だからダメとか言う事は決してない。 偉大なる仏弟子や研究者がまとめたのだから。)
他の有名なお経でも”仏説”とつくとは限りません。 法華経は仏説法華経というのだったか、少々知識不足だ。 (このあたりは下手すると大反発くらうのでさらっと)

そして釈迦牟尼はこの世に下生する気がない。 ならばあの世から天界の音楽インスピレーションよろしく感じる人に言葉をバサッとおろしたかもです。 それをすべて完全に記憶している仏弟子達。 だから阿弥陀経、無量寿経は実は釈迦牟尼仏が説いた、と言う事になり、そして阿弥陀仏の正体は実は法蔵菩薩イコールクリシュナ神也、よってクリシュナが仏教修行をして成り成りた阿弥陀仏・・・しかし阿弥陀仏の修行はすさまじいです。 地獄に行ったりそれも最下層。 時間も長い。
ちなみに釈迦牟尼仏はビシュヌ神の化身とか言われます。 ちなみにクリシュナ神はビシュヌ神の化身とか、ああややこしい。

参考: クリシュナ神  http://www.k5.dion.ne.jp/~dakini/tenjiku/zukan/krsna.html

実はなんでこんな事を思い出したかというと、南無阿弥陀仏はなんとなく抹香臭いとかじじむさいとか、それにやや内省に過ぎるようだと思い、また浄土系のお坊さんはどうも坊さんらしくないと思っていたので印象が悪いのですが、いろいろ学んでいくと、しょせん神や仏には敵わん、敵うなどとは到底思えないがちらと夢想することもなくなります。 そして阿弥陀仏に南無する、を深く考えるとうなづくこと多数です。
そんで、つまり偉大にして偉大な神がある目的の為に到達したのは阿弥陀仏で、自らの領域というか理想郷を現世では神様なのでつくりにくく、霊界に作られたということかな、と思う次第です。 そして南無するとはいろんな意味が取れるな、と思うのであります。

それを釈迦牟尼仏が、生前言ってなかったので、これはいかんと思われたのかな、と想像をたくましくしたのです。

しかし、ここで思うのは全托の生活ができたらこれはこれで素晴らしい、と思います。 但し、何の努力もしないのは良くないですが。 というか全托生活はある意味とてもリスキーでもあります。 不幸と幸福の垣根がややもすると意味なく壊れてしまうので。 まあそれはそれで究極的には良いのかな。 バランスでしょうね。

さらに思うのは、上で述べた”ある目的”とは、阿弥陀仏は我々に理想創造(生きがい、存在のし甲斐等々)を示し、それは”美の創造”を示されたのではないか、ありとあらゆる美の創造こそが皆さんの究極目的ですよ、その前に環境が厳しいからそんな風に感じるならば私の国で学習(修行)しなさいよ、とおっしゃっているのではないか、と思う次第であります。

当然個々人のやり方があるので他の方法でも良いはずです。 いやいや、やはり長いこと信仰されているということは今更ながら意味があるな、と思う次第です。 軽んず勿れそして自らの不感症を愧ずるなり。

ちなみに阿弥陀仏イコールクリシュナは一説であり、宇宙というか我々の銀河系内にあるのかないのかの神霊とかいうことも考えられます。 それは単純に阿弥陀仏の浄土が遠すぎるから、と言う至極単純だが言明してある理由からです。

結論は第三の眼でも開かないと分からないかもですね。