空と聖書

2019年8月22日

神様、と呼ばれる存在となにやかにやとお付き合いが始まって(じつはずっと前からだったらしいが)、まさしく神様然とされるところと存外人間的かいな、と思われる部分を目にしております。

さて、その中でいろいろおためしがあり問答をするわけですが、世界の根幹、究極的なものはなんだかろうかという話になって、神様が言うには、「それはお前(たち)が言っている”空”だ。 空が根本だ。」と。 なあるほど。
大乗仏教を語る時に決して忘れてはならない、般若経の説く空の理論。 龍樹菩薩が大成した理論ですが、実態とは何か、自我とはなにか、恒常性とはなにか等々非常に高度な理論を展開しているわけです。 また、”空”は”無、スーニャ(サンスクリット語)”ではないのでなんだかよく分からないとも言えますね。 そんな難しい理論にある”空”が世界の基本だと(我が)神が言い切ったというところに驚いております。 (いつもは理屈にとらわれるなと私が言われていますので)
但し、自性については龍樹は否定していますが、本当のところは、どうなんだろうと私はまだ確認しておりません。 よって神様の指摘の、”空”が無自性に基づくものかどうかは再確認が必要ですね。

そして、それから他の話をしておりますと、世界の神話はどうでしょう、神界・人間界の現実とあっていますでしょうかね、と尋ねますと、「実は、聖書と呼ばれる書物に書かれている内容は結構正しい」とのことです。 ちょっと驚きましたね、日本の神様なのにね、と思うと、 神は時空を超えるよ、とのこと。 それと世界の神話はやはり政治的な意味合いとか、まあ良いとこどりとかあるようですね。

この話は結構前でサニワの人を介しての話ですが、それからだんだん厳しくなって、とうとう自分独りでコンタクトを出来なくてはいけなくなって(結構たちますが)、交信は非常に難しいと感じています。 このような交信ができる人は、霊能者とか、一度医者に行けとか、お花畑とか呼ばれますが、あまり唯物論的は発想ばかりしないで唯物論を包含する霊的世界の可能性も考えた方がよい、という立場から考えてみましょう。 そうするとまあ、思いこみとか悪気はないが空想家(私もそうかも)、または本物(程度の差がある)もいるわけです。
また本当に正しい相手と交信しているのかの自己確認がこれまたやっかいなんです。 承認機関はいないですから、自分自身が寄る辺なんですね。 う~む、犀の如く独り往け by お釈迦様。

せっかくこれだけ崖の縁まで追い込まれた生活をしているので出来れば本物になりたいものです。 本物も、感応するものが、イメージ、声などとこの二つに大きく分かれるタイプみたいですね。 当然全方位的にすべての超感覚機能も使える人もいますでしょう。 そうなると”神人”でしょうが、まあ、滅多にいない。 大多数はそれこそ大多数の平均点でしょうか。

じゃあ、なぜ難しいかというと”世界”の構造が異なる、言ってしまえば次元がことなるので両方の通信体系並びに意味付け体系が分かっていないと、それも言語野を必ずしも使うということではなく他の器官(もしかして現世にない)も使うかもしれないと思うわけです。 しかし、何かの方法はあり古来より修行の中に組み込まれたりしていますが、気づくところ、人間が十人十色のようにその方法也は個々人によるようです。 結局個人のまるで悟りに近いようなものかも知れません。 または隣にありそれを発見できないという歯がゆさもあるでしょう。

道は遠いような近いような。 もう近い、と言う設定にして邁進だな。 でなかったら、また前世の繰り返しか?

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