唐突に法華経(その2)

2019年8月22日

私は素人で単に興味があって仏教を勉強したものであり、正式にお寺や大学等で学んだわけではありません。
そして、当の法華経についても、空海も効能書きばかりで肝心の薬がない、とある意味酷評していたことを覚えていて、なんだ空海のような天才があまりよく言わなければなあ…という理解でした。 しかし、その後に空海も晩年深く法華経を読んだり解説したり、または道元禅師なども法華経を深く学んでいた、と言うことを知り見直し、またある出会いもあって概要しかしらないですがまとめの意味で見直そうと思った次第です。

●サッダルマ・プンダリーカ・スートラ、妙法蓮華経とは何か?
仏教も他の宗教と同じように、派閥や集団ができてまた時代背景もありどんどん分離拡散してきました。そしていわゆる小乗とか大乗とか言っていわゆる派閥争いが起こったのであります。言ってしまえば形式派(小乗)と精神派(大乗)の引くに引けない対立です。
平和的といわれる仏教ですが、互いの派閥とも譲らず、終には争いに発展していったものです。
そして、そのような争いはいろいろな仏弟子達が心をいためておったのですが、その中で一乗と後に訳されるグループが出来ました。 各派閥に対して、お互いに良いところを見つけて仲良くしましょう。 大聖者である釈迦牟尼仏がこの世に出られた理由は平和でしょう、という主張をしたグループです。そのグループが作成し典拠とした経典が妙法蓮華経であります。当然仏陀自身が説いたものでなく、後世の仏弟子達が作成したものであります。
そして、”説いた”内容というのはあくまでも”小乗”とよばれた原始仏教の理論と精神でもってであります。大乗派から出ていますが、この妙法蓮華経は原始仏教の研究書の意味もあるようです。

ちなみに、法華経は略称(または全ての仏法の中の華の意義もあり)だとおもいますが、正しくは妙法・蓮華・経でありますから、この各語と連続関係を把握しないと、釈迦牟尼仏、でないとお釈迦様の働きを把握できないようなものであると思います。 人間簡単なものを選びますので注意です。

●誰が何時書いたか
グループと言っても中心的な人はいて、○○菩薩と呼ばれます。 その数は13人。 そして150年間をかけて書いて編集したものであり、西暦1世紀から開始しております。そして内容として全二十八章となっています。 どのように伝搬したかは歴史書に詳しいです。
ちなみに一番よく話題になるのは、常不軽菩薩です。 すべての人の仏性を拝んで成仏したと言われています。

●妙法蓮華経の説く内容とは
さて、法華経だと世上で特徴と言われるのが、五百塵点劫の本仏とか、えらくでかい石を天女がまたえらく長い時間毎に紗の衣でサーとなでてその石が無くなる時間とか、宝塔の中に仏様が二人ならんで座ったとか言うエピソードが思い出されたり、一部が観音経である、とかあります。

そして、この妙法蓮華経の”内容”とは、つまり宗教的には”真理”ということになるわけで、軽々に言うことはできないのですが、そこを超えてあえていたしたいと思います。

まず全二十八章は前十四章と後十四章にわかれ、古来から前半部分が二乗作仏を宣旨する”迹仏の門”で、後半部分が久遠本仏を宣旨する”本仏の門”と呼ばれます。  簡単にいえば、法と仏、の意味であります。このように法と仏を同じバランスに説くのは陰陽の原理とも結びつくようです。

さて、二乗作仏って何か、というとつまり小乗と大乗のことであります。 そして作仏とは、互いに仏になれるという確認です。 つまり互いが互いに卑屈心と軽蔑心を互いに持っていて”仏になる”ことを邪魔していたのですが、これを高らかに解消したのであります。昔からの言葉では、平等大慧と言われています。
もっと簡単にいうと、あなたも私も仏だね、と言う意味です。

次に久遠本仏。ここは古来いろいろな論がでてかまびかしい。私がいってどうこうなるものでもないですが、(言っていることは先生の解いた内容だし)、文句を言われやすいところであります。 それはさておき先を急ぐと、じつは、私こそが久遠の仏、と言う意味であります。 わたし、と言っているのはあなたのことでもあります。 仏陀が偉大なのは、この真理を説いたからこそであります。 そしてこの久遠の仏は超久遠の仏につながっていくのであります。
ここで思い出していただきたいのは、われ仏で卑屈心を払拭し、あなた仏で軽蔑心を払拭したことであります。 ですね。そしてついには地球一切の聖者の元の元は我である、という一見誇大妄想狂ともいえる洞察と自信を徐々にえていくとの事です。

さらに超久遠の御本仏たる釈迦牟尼仏の愛子であるという内容です。これはまた後で。

●四つの真理
さて仏だ仏だ、ってまだ死んでいないやい、と言う誤解をされそうですが、われは仏、皆が仏、元の仏、元の元の仏を信仰するというのが四つの真理であります。
そこで仏たるもの、なにかというと、自在と愛を行じるものであると考えます。これが前提です。

しかし、これだけ読むとなにがなにやらとか、じゃあ仏だから好き勝手やらしてもらうぜ、との誤解もありそうです。 まあ、本当のところ好き勝手やってもいいのでしょうが自分に跳ね返るのも事実ですから知恵あるもの自らを律す、です。
さて、じゃあわれ仏と言っても、それを言葉上だけでは理解できず、それをちゃんと理解しようとしたら三法印を理解しなければいけないのです。 みな仏は八正道による行動の規範化と愛行、もと仏は三密(言葉、行動、観想)による潜在意識の徹底的な浄化、みおや仏はそれでもまだ上位者がいることの発見と自然な信仰であります。 実際のところ、ちょっと理解して、さらっと出来るものではないのですね。

でもそれを頑張れば素晴らしい未来がありますよ、というのはさすがに寂光浄土と先師達が説いた内容です。ありがたいことです。

●仏と法
仏と法のいずれが上位か、とは論争の絶えない問題のようですが、やはり原始仏教が基本ですので遡ってみると、結論的には仏の法であります。ここは誤解しそうですが、私のような一般の人が理解している法と仏陀の理解されている法とではこりゃ、全然ちがうだろうと思われます。ただし、映り方が違う、というのには注意ですが。さてじゃあ、法、とはなにかと言うとこれは”三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)の事です。だから最初は、法則、なのです。 そして、映るのが違う、というのはこの法がついには説法するというように人格化するのであります。まるで法身の大日如来が金剛サッタに説法するようにです。
そして法と仏は、母と父のような関係であり、また母と子との関係のようであるというと心情的に分かりやすいものです。
父と母と言えば男と女と言うことでもありますが、これは陰と陽という原則でもあります。塔が出てきて入りなさいと言ったのは母側のつまり、陰側の多宝如来でありました。そしてそれに応えて仏陀が塔に入ったというのは、いうならば陰陽合体の真理を言っているのであります。
この件は、劇作文としての法華経では非常に感動的に描かれているのであります。 つまり陰陽合体の大事業の為には、宇宙にて説法している仏陀のすべての分身をここに集めなければならない、との状態です。

なお、多宝塔の中の多宝仏は痩せ衰えていた、との説明があり、仏陀の説法にて、復活したという内容は以上の原理をよく表しております。 まさしく、”善い哉、善い哉、真の平等愛(最高の愛)を説いた仏陀よ、素晴らしい”と神が仏を賞賛した瞬間であります。 仏陀も最高にお喜びになられたことは想像に難くありません。

●では、南無妙法蓮華経、とは?
やはり、法華経を短く説明するのは、そもそも自分が理解十分かという曖昧性があるのでさらに問題かもしれませんが、えいやと力強く進むと、お経を信仰するという課題にぶつかります。 最初、意味わかりませんでした。 偶像といえば、真理が説かれているといえども、偶像ではないかとおもいましたし、いまでもその気持ちは正直抜けません。
とはいえ、このように先師は説かれています。
妙法とは自在なり。 蓮華とは平等なり。 経とは精進なり。 南無とは、これは帰依する、信仰するなり。
経には色、香、味と寿量品にあるなり、と。 そして南無妙法蓮華経と組み合わせることにより、本尊となる、と言うことです。ようするに本尊で信仰対象となるという解説です。

以上は飯島貫実著『法華経の原点』から抜粋です。誤解があるといけないので興味のある方は原典を幸いにしてご精読ください。

本内容が越法、誹法でないことを祈りつつ終わります。 機会があればもっと詳しくまとめたいものです。

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