不完全こそが完成である

2019年8月22日

昔から気になって仕方ない言葉があります。 それらは、”無限”、”永遠”、”宇宙”です。 時間と空間(距離)に制限があるこの世ですが、それが果てがあるのかないのか、始めがあるのかないのか、あったらどうなのか、ないならどうなのか、限りがないと言ってもいや、あるような気もするし、でもあると言っても変だし、無いと言ってもおかしい、 とにかく分らない、そのうち吐き気がしてきて身体がぶるぶる震える、というのは若いころのみずみずしいというのも恥ずかしいも、純な気持ちな場合。
大人になると妥協という技をもって、生活に生かすので、結局問題が高尚であろうがなかろうが、自分の精神の崩壊を自分で守っているのでしょう。

古くから宇宙の果てとか宇宙の始まり、極大と極小の追及という大命題は人間を科学者にしたり、哲学者・宗教者にしたり、またはそんなこと考えても一文にもならん、という大多数の人になるのであります。

たしかにどちらに転んでもよく考えたらどっちでもよいようであるし、昔から今の考え方でも、ビッグバンという科学者、いや赤色偏移は無いからどうだという科学者、とか、大きな亀の甲羅の上に宇宙はのっており、口で自分の尻尾をかんでいる、(つまり永遠循環)とかいう神道家、大きな円錐形にさまざまな世界があるという仏教者または、神が作ってそのうち選抜試験があって、合格者がその存在を許されるとかのセム系一神教、そんなこと気にするなとか、結局わからんという無知論者などなどであります。

あまり考えすぎると地獄の釜の下に広がる世界を垣間見るような、精神の筒をすべて外してむき出しになっていかなる痛みの感じるようなことになりそうです。

あと、便利というのもなんだが、”心力が及ばずにあらず。” ”神ならぬ身にそのような究極の問いに何らかの答えが与えられようか”というある意味諦めの境地も人の心を救います。

となるとですね、我々が精神的霊的肉体的に進化向上が目的でこの世にあるとすれば、永遠の過去から永遠の未踏破の未来に向かって生きているというのもやや論理に無理があるようです。なぜか、つまり永遠に完成はしないからです。 となるとどうか、つまり不完全であるから完全であるという論旨が成り立ちそうです。 または、不完全という状態こそ、その究極の不完全性が完成に限りなく完成に近づく、つまり無限の彼方で交わる可能性がある。つまり不完全こそ完全の永遠に存在ができる形ではないでしょうか。

しかし、より良く、善く、そして慾にて不完全にして完成した我々は究極の命題、”存在”に挑むのか”感謝の後遊ぶ”のかを試しているのかまたは試されるのでしょう。

完成への道程は段階のような状態であるようなので、その段階にあれば”完成”なのでしょう。 しかしそれはやはり未完成なのでした。 そしていつかはこの螺旋的な輪廻の輪は超越した状態に行くのでしょう。 やはり心力の及ばざるの状態也か。 もうちょいか言葉では難しいか。

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