預言の可能性
このまえ昔神道を習っていた方が釈迦再誕の預言をしましたが、世の中にいろいろ預言があります。 ちなみに、この方は情報は多くてまとめが得意です。 しかし、フォトンベルトとか惑星グランドクロスとかいわんやアセッションとか言われるとがっかりですからね。(アセッションと言ったかどうか不明ですけど。) さらに言うと、フォトンベルトを熱心に言う人を見ると本当にがっかりしますね。 ハレーなど権威を使うやり方は詐欺師の語り口だ。
それはさておき、興奮するので、預言・予言はまるで嘘かすこしはあたるかです。
株価やどの馬が一着になるかの予言が当たれば人は大興奮してその予言者に飛びつくでしょう。
そういえば、新宗教で九州の小倉のもとスナックのママが始めた密教系の宗教がありますが、小倉競輪で一日で一着を90%くらいあてたらしいですね。 すごいです。
この場合どの番号が一番最初にゴールを駆け抜けるかというある意味単純な結果の予測です。しかし普通の人ならそれでも大抵当たらない。
ならば、競輪と同じにして恐縮ですが、ある人の未来を当てる、というのは非常に難しいと考えるのは簡単ですし、今後この世の中がどうなるか、なんて超スーパコンピュータを並列計算させても、気候だけの計算でもかなり正確ですが完璧とは言い難し。 ならさまざまな因子のある人間の未来は予測不能なはず。 でも人は未来の予測を求める。 自信がないから、私も貴方も。
そうなると宇宙の未来を当てるなんてファンタジーとしかならない。 ある意味不遜だ。
でもでも、ならば範囲を狭くして日本の将来は、となると世の中の未来ということで、物理学的なアプローチや経済、厚生などの各面を強調してこんな世の中になる、またはしたいということが言われます。 さて、これら以外に、預言書が余の東西にあります。
聖書も預言書です。 そして仏教にあります。 『大方等大集月蔵経法滅盡品』がそれですが、大乗ですから基本的に非仏説ですが優秀な弟子が書いて正鵠を得ているか、正しく釈迦が霊界から指導したなら仏説ということでしょうか。 これらのお経はブッダ入滅後は世の中が悪くなるという話。つまりのちの末法の世になるという根拠の一つなっております。そして弥勒下生と続くのです。
日本でも聖徳太子、日蓮、ずっと下がって出口王仁三郎、の預言等、多分思い出していないだけでもっともっといるでしょう。
あすは雨みたいだ、という予言と救世主が下生してくるという預言はどちらもあたるかもしれないし、どちらも当たらないかもしれない。
そして明日が雨か晴れか、救世主がくるかこないか、というのは考えたら同じことです。
要するに人間はことほどさように、自信がないし、今晴れでもあす雨かも、今の世の中が厳しいからだれか救ってくれないか、という甘えた思想、希望なんですね。 でも誰も責められないです。
思うに、緊張しないと敵味方がいる現世では基本的に生きていけない。 しかし人間だから大調和を目指していきているけど、ふと、その緊張が解けてしまい、夜道にヘッドライト無しに車を走らせるような恐怖感が襲うのではないかと思うのであります。 そして車もガソリン切れ(老化→死)かもしれないし恐怖はだんだん襲って自己卑下や自己嫌悪から懲罰までいくのではないかと。
生きる恐怖感を払拭して、衣食住&安全を満足させるのが文明の基本であり、今は問題はあるがそれなりに成功している。
そしてその文明があるのだが人間は”飽きる”のであります。 飽きるとは単純な刺激になれてしまって継続の価値を見出す熱意がどんどん低下しているのではないかと。
神道は、私の考えですが、ある意味同じことの繰り返しを美しき儀礼、儀式、型、生活の行事に納めてそれらの完成しないが99%以上の完成を目指す生活様式に大価値を見つけているのではないか思います。 自然と融合してもおり軸がぶれないですので素晴らしい。
しかしこのように考えない場合は、虚空の一点から生まれた宇宙の結果の一つが我々ならば、一体どこに向かっているのか、そもそもその存在意義は何か、と戦乱がなく、食うものに困らずの現状になるとふと思うもの。 そしていかなる答えも本当に心から納得しないと適当な理由をつけて自己をごまかしているのであります。 それらがわかると聖者と言われますし。
そうして、結局、仏陀のような人間が考えうる最高の境地に到達した聖者、神の子と言われたキリストらが滅した後は世の中は悪くなるに決まっているし、それは救世主以外に救うものはいないはずだ、という考え方につながるのではないかと思うのであります。自分はだめ、と言っているのと同じ。
知恵の光が射さないと自己卑下をしやすく空間的な活動力が落ち、また同じことの繰り返しに価値を認められなくなった人が時間に耐えられなくなり、世の中なんて悪くなってしまえ、そして破滅してしまえとという思考パターンとなり、そのくせそれは困るから預言や予言そして、自分が求めているのに、だれかが救ってくれるという思想になるのではないか、ということです。
つまりは人間とは、破壊と創造を一緒に常に願ってしかし且つ嫌っており、また変化と不変という相反した現状も同じように大事だと思う、それを永遠の中の有限という特殊状況で行っており、一体何が願いかという困ったチャンではないかということに落ち着くのであります。
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