背後からの叱責

2019年8月22日

脳内イメージ発現は続く・・・

大きく言えば民族のカルマン(行動およびその結果並びにそられに付随する精神作用すべてだ)があり、国のそれ、ゆえに国民のカルマン、地域、一族、氏族、家族、個人と見方や範囲がある。数学の集合で考えればやや近いかもしれない。

最近天空の扉が開いたのは大きく言えばわが氏族、祖先に関するものであった。 これは神々の複雑な内情に関係する。 人間ごときが判断とか手を出せぬ。
そしてそれが済むと次は自分の何万年前から人間やっているか覚えていないが、その一こまである。

その一つ、タイで僧侶をしていた頃である。 その風景は時々見えるというか頭に浮かぶ。 そう言えば今世でタイには5回ほど訪問した。すべて仕事だが親近感がわくのがどうしたものかはその時は分からなかった。 しっくりくるんですね。

タイと言えば上座部仏教で出家したら戒律も厳しいし修行もそうだろう。 しかし今一番きつい仏道修行は日本だと思う。 死ぬぎりぎりまで身体をいじめ抜く。 その代りに戒律は緩い。
タイでの修行自体もそれほどでなないかもしれないが、戒律は間違いなく厳しい。 体験した修行自体はなかなか思いだせないが、明確に思い出すのは残念ながら入水自殺をする場面だ。 昔から何度もみるのだが最初何のことか分からなかった。

黄色と言うか柿色の衣。ぼろぼろの衣をまとい何かすっきりしたように大河に入っていく。 メコンなのかそれとも無名の河か。遠くにパコダ(仏塔)が複数視える。 夕方のオレンジ色の陽に金属だろうかパコダのまるでマニ宝珠のような先端に緩やかに反射している。
まだ浅瀬なのか流れは緩い。 思えばどうしてもわかない。 真理とはなにか。 仏道とは何か、修行とは何か。仏陀の真意とは何だったのか。 何も分からない。私は無能だ。気が弱いのだろう。 わからない自分を許せない。 ならばこの生に何の意味があろう。
もう何日もこの問いを発した。 同行のものにも師匠筋にも。しかし分からぬ。 あなたたちはそのために修行しているのではないのか。 他のためなのか。
純粋な気持ちは却って足枷になる。 自分で自分を苦しめることをやめない。分からなきゃ分からないで良いではないか、というのはうまい心を抱いてくれる安全装置だろうが、そんなものは唾棄すべきものだ。軽蔑するものだ。 開祖仏陀はそのような事を許したのか。
ああ、分からない。 なぜここにいるのかも分からなくなった。 我々のような男子が出家するのは家族の誉だ。 素直に嬉しかった。 しかし辛い修行も行ったが、結局深い真理にどうしても到達できない・・・ まだ若いのではあるが・・・

前世の私はこのように思慮深く、まじめで、物事を突き詰めて考えなくては気がすまないような男だったらしいです。 いまの自分とは大違い、ではなく照れますがかなり共通点が実はあるのです。

そうか、もう考えるのに疲れた。 人生悟りえらずんば無価値。 ならばいっそのこと涅槃の世界におもむこうぞ。 みなすまん、先に行く。 これで決まりだ。

このような心理状態を今の私が感じています。(もともと私ですしね) そして情景は移り、とうとう腰のところまで入っていっています。このまま沈んでしまうのか。 この状態を何故だか冷静にみている自分がいます。 冷静なのは簡単です、今も同じような事を考えているからです。
そして終に胸のあたりまでの深さまで歩みを進めたようです。 振りかえる余裕もないようです。
そして・・・はっと、気が付き今の自分!

”やめろ!!!” ”それ以上進むな!!”

今の私が、過去の私に心から思わず叫んだ言葉です。 深く同情しているのに今の私がやめろと叫んでいます。

その声に驚いたように振り返った顔、肌の色は違えど、まさしく”私”です。 そうなのか、やはり・・・またその声を待っていたのではないか。

現世でも心が実は弱いのか、困難というかどうにも理解できないことが起こると、最後は死んですべて清算、という思考パターンを持っています。 生きる力が弱いといえば弱い。
しかし、死んだらすべて終わりというのは理屈に合わないし、自殺者がすべて暗黒のそれこそ月や冥王星の監獄か、地の底のつまり地獄か、あるいは現場で自縛霊になのか、どうもすっきりと分かりません。 しない方が良いだろうということは分かりますが。 何にせよまた生まれるだろうという安易と言えば安易、無責任と言えば無責任。
しかし、文献でも、中国かチベットあたりだと思いますが、あまりに生活がつまらないから自殺したら、また同じ村に生まれたとかいう事例もあるようですし、バルドー(幽界)でもそれほど苦しくなくて、またかく言う私は何だっかかな、と言う事になります。
(決して勧めているわけではないです。続きをご覧あれ)

思わず叫んだあと、前世の私はその言葉を待っていたのか、まだ見捨てぬ何かがいると思ったのか、自ら踵を返し、水から上がってきました。 衣から地にぽたぽた落ちる水滴が印象的です。

・・・これがお前が今世で解決しなければいけないものの一つだった。 激しい環境でまた自ら死んでしまうのは、次の肉体をもって輪廻したときさらに深く難しい環境に置かれるかもなのだ・・・

脳内イメージといえでも、実はこれだけの推移があるのです。

尚、やはり僧侶の時に知り得なかった”真理”は何か、興味がありますね。 だから今世で仏教、特に原始仏教というものに強い興味があるのでしょう。 そしてだんだんわかってきたのは顕教の中に秘密(というかずっと理解違いされているもの)があるのではないかと言うことです。 如来に秘密なし。されどいかんせん秘密ならざることの正鵠を得るや、と言うことですね。

因みに、たとえばなのですが、般若経の精髄と世上言われる般若心経が、マントラの大事を述べるものであった、というのは如何に世間の理解、集合意識というものがもしかしてミスリードされてできているか、という大切なことを知ったのは収穫の一つですね。

辛いことも多いですが、この世は実は本来は楽しい、美しい。 親子仲良く、夫婦相愛し合い、子孫を愛で、子らから尊敬をいだかれ、近くに良き友を得て学び合う。 人には疑い無く眼が清らかか、声が透き通るか、薫風がふいているか、をみて、その人を判断し、決して財産、身分で差別(しゃべつ)してはならず、ともに美しきこの日の元の恵み多き自然と環境、社会を大事にし、貢献できればと思う次第です。

ちょっと優等生すぎるな。