死んだらどうなる? 情けの仕組み

2019年8月22日

私の親しい人です。 いつも天然自然で飄々と生きているような感じです。悩みが無いのが悩みですと悦にいっているような性格。 でも、「MUさん。」、「なによ改まって。」、「いや、あの。聞きにくいんだけど」、「金と女の子の事以外なら相談に乗ろう。一件1億円です。」とか小学生並みの冗談を言って答える私。 「あの、死んだらどうなるんでしょう。」、へっ? 意外な質問だ。 聞くと、お子さんが重症な模様。今度手術するとの事でした。 冗談モードから急ぎ真面目モードへ

こんなときに、誰でも運命は決まっていますとか、天国行きますとかの大嘘も言いたくないし、それは自らの霊格と身体の行為の結果である徳と所謂カルマが総合して判断されて自らが応じた世界に行く、と言うしか無いとは思うが、そんな理屈を言えば良いという物でもない。信じなきゃ終りだし。
それに大体、手術が失敗して死ぬと決まっているわけでもない。

こんな時は生き切るしかないので、生きるときは生きるが良かろう、死ぬときは死ぬが良かろう、という白隠禅師の悟った内容を悟っていない私が言っても迫力が無い。 でも答えはコレです。
やることをやって天地が死ね、と言えば死ぬしかない。我々の生きる場所はこれだけであろう。宇宙の中の地球だけ、今は。
そんな事をつらつらと自分に言い聞かせるように話していくと本人も何となく納得した様子。答えは押し付けてはいけないので自ら先ずは納得するしかない。
因みに、その子の入院中の写真を見ると、小さな身体に管があちこちささって大変可哀想です。 これはいかん…と思い、時間を選び、わが斎祭る神にお聞きしました所、ある霊獣に乗った神の御姿を我前にお現わしになり、”そなたの…聞き届けた。心配するでない”とのお言葉を頂きました。(頭の中に浮かぶんですけどね) そして意識が遠のきます。

”大丈夫だ”とはその友人に敢えて言わずに手術の日を迎えました。そして…3つで大手術を受けたその女の子ももうすぐ小学生になります。 桜の花と共に小学校の門をくぐる、日本は良いな。 とにかく、死ぬなんて考えなくて大正解でした。
これは私に対する教えでもありました。同じようなことで結構悩むからです。

無難が小難、小難が中難、中難が大難と難しくなるのですが、これは通常日本人なら日本人としての道を誤ったときに神からのサインとして難儀があり、どうしても理解が出来なかったら、”情けの仕組み”が発動して要するに、”死ぬ”訳ですが、死ぬのは大慈悲であって、魂の消滅(本籍地が魔境に変わる)が免れるわけです。
だからさっさと死ねばよい、誰でも天国良かったですね、とかではなく、難儀に遭った人をお助けするのが”花の情け”であり、その人の神性や仏性を花開かせたり、まずは命を存続させることになります。 これも世の楽しみが本当の姿であるという神の経綸・意思をさらに前進させることになります。

お彼岸も過ぎたのになぜかこんな事を考えていた今日1日でした。
目にする苦難は自身へのお知らせですね。ちょっと格好つけすぎかな?