神と変容神並びに健康と病気

2019年8月22日

精神的な勉強や経験を少ししてきましたが、どうしても頭でっかちなになりがちな性格です。 これは精神の物質化にもつながるから気をつけなければと、言ってる最中からエンジン全開です。
まあ、でもキャラだし許してねという言い訳をして幾年月すごしたか。
日記に書いてある研究会は、”開運”がテーマで、どうも不良会員の私はさっぱり開運(自分の意図している内容だから各個人で違う)しませんでしたが、ここでは知識は相応に得ることはできました。
その中で、いまにつながる内容は、”神”と”変容神”であります。

神道でも根源または太源(元)の神(もしくは霊)から別れて八百万の神が生まれたということで、さまざまな役割分担というか性格や働き、得意不得意は異なるようです。 なんにせよ元はまさしく純粋なる神であられます。

とは言え、その後、自らの御役目に疑問を持ったり、なんだか育児放棄ならぬお役目放棄をしたり、なんらかの理由で正常な神としての状態から離れ、また変形した神を変容神と呼び、要するに変化してしまったということらしいです。 ポイントはもともとは神であり偉大であり、人間よりはやはり高い存在であるということ。 ただし人間は変な機能があって、”変容”させられる可能性があるとかないとか。 それが”ナンテラ秘教”という健康な譲ちゃん、坊ちゃんが手をだしてはいけない・人生の無駄な分野の模様。

それはさておき、変容しっぱなしで長期間経ったり、変容度合が高いと、神出身の悪魔ということに変身してしまうようです。
だから警察出身の893みたいなもので、えらく対応に困ってしまうのは容易に想像できます。 当然関わった人間の開運なんか絶対させたくないようです。
そう言えば、映画、”もののけ姫”では、大きな獅子神が”タタリ神”になるとかいうエピソードがありました。

そして変容神となったのはなぜだろうとか、神様の事柄がわかるはずもありませんが、”健康”と”病気”ということを考えるとすこしヒントがあるように思いました。

通常は病気は忌むべきもの、嫌うべき、または闘うべきもの(闘病)と考えられますが、良く考えたら、健康こそが本来の状態であり、それが何らかの理由で損なわれた状態が病気。 変な話、健康で健康でどうしようもない人は病気にはなれそうもないです。 変な言い方ですが。 ただし、原因は現代は多すぎるというか種類が多すぎます。 文明の発達は病気の多様化、複雑化をしたのは識者の等しく指摘するところです。
とは言え、病気を捨てるのではなく、当の本人ができるなら、病気に感謝さえもして、健康を増やすまたは取り戻す(元に戻る)ことを考えたらいいのかな、と思います。 発熱と言っても、熱が出ないと入り込んできたウィルスは暴れ放題ですし、またあまり熱が上がりすぎると茹であがってしまいますから汗がでる。 これ自然の法則なるも不思議なり、です。

しかし、それは理屈と言うもので、自らではなく愛する人や家族が苦しむと病気にありがとうとは到底いえません。 これは感情の問題ですが、人たるの本音のはず。
当然、外部からの攻撃による怪我や傷などに対して、病気感謝などはできませんのでこれは速やかに”闘病”になるのでしょう。 ここが難しいところではあります。

このようなダブルスタンダードになりそうですが、話を戻すと、変容神は本来の姿から離れてしまっているので、広い意味での”病気”? こんなこと言って間違っていたら、またえらく長い間攻撃、うん百年、されるので怖いですが、そのように考えられるかもしれません。神にも精神と肉体に相当する(なんとか体とか)あるのでしょうかね。
じゃあ神も健康(維持・発展)法を習われている? それともそんなこと当に超えている? このあたりは幼い自由想像だけです。
と言う事で、変容なる病気は、さらなる高みを目指す神の反面教師???
神もなりゆく存在、と聞き及んでおりますので変化を希求されるのかなと思いました。 そして無礼であるように感じますが、自由発想で書き散らかす。とは言いつつ間違っていたら素直にごめんなさいだ。

そう言えば仏尊への総呪である光明真言は、大日如来がクンダリーニヨーガを行じていやがおうにも自らを高めておられる内容を言っている、という解説を受けておりました。

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