5月5日に考えた??
なんでもそうですが、モノを勉強するときに仏教説話に有る"アングリマーラ”というお話を常に心がけています。私は意外とお調子者ですので、特に戒めています。 これは、盲信を強く戒める話であり、人間のありようの生々しさを説いても有ります。 ご存知の方もいると思いますが、ざっとした内容はこうです。 いいつけをよく守る優秀な生徒を持った先生がおり、その生徒が自慢でした。そして勉学を続けていけば彼の未来は大いに開けるし、また自分の後継者にもと思っていたそうです。そして美男子でした。この美男子がいけなくて、その先生の奥さんが先生の居ないときにその彼を誘惑してみますと、拒否されました。そのことを酷く恨みに思ったその奥さんは、先生にあること無いこと言って、生徒に危うく襲われそうに成ったとかなんとか言いました。怒った先生は、その生徒に問うこともなくいきなり復讐を考えました。 それは、”アサンヒ(アングリマーラの元の名前)よ。真理を学ぶものよ、よく聞け。お前の学問は高いところに来た。そしてさらに究極を目指すには次の行動が必要である。” アサンヒは眼を輝かせて次の言葉を待ちましたが、意外な内容です。 ”1000人の人から指を切り取ってお前の首飾りとすれば、その目的は達成されよう。” アサンヒは悩みました。そんな馬鹿な! しかし、尊敬する先生の言葉を疑うことを由としませんでした。 そして、悩んだ末に終に実行に出ました。 罠にはめられたも知らず… 一人また一人と殺して指を切り落とします。そしてその数が増えるごとに、思慮深いアサンヒは終に人の心を無くしてしまったアングリマーラ(指を首飾りにする者の意)となりました。夜叉が如く顔つきも言動も行動も変わってしまいました。 そして、その凶賊となった男を救ったのが仏陀ということです。どのように救ったかはお調べください。
尊敬はややもすると盲信に変わります。素直であればあるほどその危険性は高いようです。
スピリチュアルな人や霊能者の方など見えないものが見えると言う人たちは、どうしてもその体験を絶対的なものにしたいはずです。私もそうだったら同じかもしれません。
でも、かれらはよく間違えます。 ノストラダムスの大予言は本場フランスでは特段に注目されませんでした。 またアンゴルモアの大王は来ませんでした。また後でさんざん煽った五島勉さんは公式謝罪しました。
そしてその後も船井さんなんかが認めたという事もあるのでしょうが、”フォトンベルト”なる与太話に非常に多くの人(含む霊能者またはスピリチュアルなんとか)が”コロッ”と騙されました。 今も居るみたいです。またマヤのカレンダーの架け替えをこの世の終り、という事で嘘を広めた人も、悪意が有る無いかは別として、居ました。もっと勉強してから世に問うべきです。
予言とか神示とかバイブルとかいろいろありますが、未来は決まって居るのでしょうか? もしかしたら大筋は”だれか”が書いてある可能性もあり、そのことをワイワイ言っているのでしょうが確認が出来るのでしょうか。 また、最近の共通認識として、心の動きでどうにでもこの世は回ると言う、所謂唯識、唯心理論がありますが、ではそうだったらそのシナリオとどのように関係して整合性をもつのでしょうか。よく分かりません。 だったら唯心論なんていわないほうが真面目です。カルバン主義ですね。
ちなみに、唯識、唯心とか言われたりしている内容は、私の(狭いでしょうが)勉強範囲で、そのオリジナルは仏教か量子力学しか知りません。 仏教が東洋的アプローチの主に瞑想とヨーガでこれを獲得し、量子力学は西洋の論理を突き詰めてある事象について”説明できないこと”を論理の裏にある”意思”とか何らかの”協同謀議”が働いているとしぶしぶ認めています。
もしかしたらこの協同謀議を認めるならば、個人の無意識の外にある超意識というものを認めなくてはいけません。 フォトンベルトの後はこの辺が種になるかもしれませんね。何にせよ科学と宗教というか心理的な内容は矛盾しません。究極は存在論なのです。
それに大体人間は100%霊能者です。その能力が開花しているかどうかが違うだけで、有る無いの論争は人生の無駄です。人生は短いからあまり無駄なことはやらないことです。 だから、その能力をどのように開花させるか、人生の華とするか、またはより良い社会にするために役立てるかを論議すべきです。またそれはたくさんの方法あるはずです。 そのような力は内在しています。それを神と呼ぼうが可能性と呼ぼうがその人の自由です。今となっては、”可能性”と呼んだほうが良いかも知れません。変にかしこまったり反感を持った人もいますので。
またこの能力を全く使わないで人生を構築する方法もあるかもしれませんが、経済人間か唯物論者ということです。しかし、勿体無い話です。
神道でも直霊と4魂で心の機能を見つめており、またその能力の発露の仕方を教えてくれています。無論仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、地場宗教(という言葉があるかは疑問ですが)でも程度の差や方法の違いはありますが、教えています。だから、だれにでもそのチャンスはあるのです。
大人になる、と言うことは意識が広がることです。 小学校や中学校のグランドが意外に狭く感じないと大人になっていないのです。それがもっともっと広がると、時空を越えたりしますので、人間と言う残酷で無慈悲な面もあるが結構素敵、とか救われる気がします。
子どもの日にアングリマーラの話の話を思い出しました。尚、”1000人(本)の指”は、弁慶の刀狩を思い起こしますね。
そして、仏陀でさえ、”本に書いてある、先生に聞いた、世の中でそう言っている、と言う理由だけで物事を信じてはいけない。それが自然の理法と人の情に則しているかをよく吟味し、納得すれば信じなさい。そして私の話であってもちゃんとそのように捉えなさい。” と仰っています。 ここが好きです。絶対的な自信を感じます。
やっぱり坊主になれとか? 単に猫が居なくなって寂しいので書いたとか??
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