本朝と天竺、梵我一如と言霊

2019年8月22日

そんな形而上的なことを考えるならば他に考えること、特に今の苦しさを解決することを考えるべきだ、は仏陀のお諭し。 しかし、不良の私は興味があって仕方がないのであります。

最近、無我とか、存在とか考えるとき、自性、ブラフマン、アートマン、ブッディ、プラクリティ・・・そして、般若心経とかに結び付くのです。 その源流にウパニシャッド哲学というものがあり、古くからのインドの哲学ですが、もともとはヴェーダというもの最終形態ということとのようです。 細かくは置くも、このヴェーダは当初は祭礼、祭式のことであり、祭でいかに神に機嫌良く降りてきてもらうかということがスタート。 そしてそのうちに祭文、祈りの言葉、マントラが重視されるようになりました。 つまり言霊信仰のようになってきます。 そのうちにそれらの”コトバ”がブラフマン、つまり宇宙の原理、法則という意味になり、そして自我であるアートマンはもともと”息、呼吸”の意味です。
う~ん、ますます本朝と似てきた。

本朝(って、日本のこと)と違うのは、ヴェーダ哲学が発展というか変化していくにつれて、祭礼第一で、言葉によって神はどうにでも支配できる、というようになってきています。 主客逆転現象ですね。 でも最高なこととは、苦行でもなく、哲学でもなく、知の極地の悟りでもなく、信愛(クリシュナ神に対する)である、熱烈な信仰である、というのは、阿弥陀仏絶対の親鸞上人とか経典第一の日蓮上人のよの言葉でもあるようで興味深いです。 またはキリストのようでもありますね。

神をどうにでもできるのというのは、ユダヤの秘教とか、世界各地の神霊主義にも多く見られる考えでありますので、要するに人間は何千年前も今も同じようなことを考えているように感じます。

日本神道には、それほど神を脅迫するような技とかないようですが、どうなんでしょう。

しかし言霊、言葉が宇宙の最初・・・とありますが、インドでも同じような発想があるのが面白いなと再度確認した次第。