般若心経を読みなおす 観自在菩薩は何を求めた?

2019年8月22日

以前から般若心経はいろんなことに効果がある万能薬みたいなもので、一般的にもしょっちゅうブームになります。 昔の自分の日記をふと読むとこのお経が何をいっているのか、なぜに効果があるか分からないと書いてありました。 このお経を読むのはくせになっていますので、PCのWindows OSみたいにマルチタスクが可能になっています。 というのは、全然他のことを考えながら読経ができます。 まあ、反省してまたやりなおしですけど。

他の方もこのお経を外で読むと霊がよって来るから読んじゃダメ、とか、いやいやお守りになるから、という理由で読んだ方がよいとかさまざまです。 ちなみに悟りを開くために読む、というものですから当然寄ってきます。 それは分かった。

さて前回考えたときからいろいろ勉強をしました。 そして分かったことが多数あります。 わたくしの敬愛する飯島貫実先生も全く同じ意見であって嬉しかったですね。 さて、前置きはこれくらいにして、

一番大事なのは空の理論を説いているところではない。 無論大事であることは間違いないが、ちなみに空には何種類かある。
そして肝心かなめなところは、マントラである。 ギャーテーギャーテーのところですね。 ここを繰り返し唱えることが、悟りへの道である。 観自在菩薩行深般若・・・とある、”深い行”とはこのマントラ繰り返し行であります。
以前四諦真理、縁起等々なんでこのお経は否定しまくっているのかなと思っていましたが、それはそうです、心の動きから発動したこれらの現象とその本質を包む働きを考えると、否定してその否定も否定して、空という作用的実存的概念で包み込むということになりますので、さもありなんであります。

また般若心経という題名は、般若の智慧(真理を獲得するための智慧)を得るくマントラ=心)の経(スートラ、教え)であります。 原文にはスートラという単語はないようです。
そしてこの考えは、空海もそのように言っておられるようです。

ちなみに、私の理解でありますが、仏法の最高神は最高の聖者(報身仏)のみが感得できる偉大なる根本的な存在であり、理の神であり仏母であり、それが究極の智慧であるといわれるアノクタラサンミャクサンボダイ、かなと思っております。
また偉大なるものとは悟りの段階の無限向上とも言えるかもしれません。

そして観自在菩薩。 観音とも言われますが、宇宙の原初が音であり、ここから始まったという意味で、”音”を”観”るということかな、とクマラジュウさんの翻訳を考えたのであります。
また観音様という語句は、やさしい感じがして素敵ではあります。 しかしどう考えても男神です。 インド名アバロキティシュバラ。
”菩薩”ということころが意味深い。 単独でも信仰はされておりますが、この菩薩の胸に燦然と輝く智と情を兼ね備えた超偉大なる神に近づこうとした、と考えることができるかな、と。 よって、文字面では簡単に言えますが、真に偉大なるものには偉大なるものを通してのみ近づける、獲得できるということかな、と思う次第であります。
また法華経の第25品目ですが、これも観自在菩薩の功徳を説いたもので、徹底的に褒めまくっており、大慈悲の持ち主と褒めさやけていますが、これははたと気づくと反対に怖い。 もしかして、大いなるまたは暴虐なる怒りをおさめるためでは?というのは考えすぎか。つまりまるで御霊信仰を惹起するのは私だけであろうか。
もともと偉大なる力をもっているが何かでよろしくないことがおこり、無実の罪に落された。しかし、非を覚った人間や天界の者たちがとにかく善業のみをおこなってくだされ、と哀願しているようにも感じます。 上記と重ね合わせると、嫉妬した神々がいたのかな、と思うのであります。(菅原道真さんの事案ぽいぞ、と。)
それとも妄想ガーター一直線か。 だって、観音様と言っても怖い方いらっしゃるんですよ。 ちなみに”観音菩薩または観自在菩薩”と言っても多数いらっしゃるというのは日常感覚です。 まるで存在の本質に加えて様々な属性によって行動されているような感じです。
間違っても罰が当たりませんように。

最後になぜにマントラなのか、ということですよね。 それは分かりません。 ブッダに聞いてくださいとしか今は言えない。

しかしまとめると、あるステージの悟りを得るために何度も何度もマントラを唱えるとこの世の実相が見えてきて、この世の真理とは何かが鮮やかに見えますよ。 実在と非実在のありかと姿がわかり、その構成因子が判明してこの世の摂理を十分に理解していくことになります。 そしてついには真理の高みに自らを置き、しかし同じく自利他利の真理(大乗ですからね)をつかむことになるのです。

マントラ曰く、”渡った渡ったみんなで渡った至高の浄土よ、そら(仏に)成った!”

実に実のある平和希求の真言ということになります。

最後に、マントラの繰り返しとは言うものの、本当は師から弟子に伝えるものなので、現実的には僧侶以外の非専門家やわたしのような一般人は、漢訳の般若心経をはじめから終りまで読んでいく方がよいというか必須です、 結果が責任持てないので、その点よろしく。 (さんざん言っておいてなんだ、とか言わないように) それが現実対応です。