新しい年になったが・・・神々の声を聞く

2019年8月22日

新しい年になるところっと、変わるといわれて期待していましたが、ころっと厳しくなりました。 なんだよ、と言う感じでちょっとぶー垂れています。

引っ越しがまた課題になって、その気まんまんですが、考えると、昨年に出雲に行け、と言われてのは出雲が目的ではなく、いまの場所から引っ越せと言う意味だったらしい。 そうだったらそう言ってくれればよかったのに。もうその選択肢は採れない。 何と言っても今の場所にかなりの霊道ですから。 母親も退院して家にいると具合が悪くなるという現実あり。 部屋そのものが悪いわけではなくて霊道が多大なる影響を及ぼしているらしい。 また霊道は人の業では変えられないらしい。 しかしやっていることは修験道的な世界だな、と最近思う。 (統一する理論場との合一性がまだ見つからず。事実は奇なり。)

で、仕事を安定させろ(その気まんまんですがな。紹介してください。)、結婚しろ(もう長いこと女性と親密に接していません。いろんな意味で。なんだか面倒くさいが、家をつなげないと)、神霊に関わる仕事をせよ(そのつもりです。単に神霊、心霊てきな内容だけでなく、複雑な仕事のトラブルや、生活上で深刻な悩みにも具体的にかなり幅広く対応できるでしょう。)、技術的な仕事もせよ(はい、そのつもりです。 神霊だけでもいいですけどね。バランスでしょうか)、体を鍛えよ(これはやってないな。やろう)、痩せろ(霞が関というかすごい霊的な環境で見事に痩せました。昔の服が着られる。)、知識の整理を続けてせよ。(そうです。まだまだ整理することがある。 特に自己と自我のところが未着。)、明るくせよ(にこにこして暮らすべきであります。 自然とそうしたいが。)、早く我々の声を聞こえるようになれ(そうなんですが、以下に続く)・・・という感じです。

新しい年になったら、宝くじでも一発当たって、それをもとに仕事でも始めるか、とか怠け者発想(恥)でしたが、どうも違うかも。 それほど怠けものでもないので、仕事がずばずば決まるのかなと思っていましたが、なかなか思うというか希望するようにはいきませんね。 先が見えてないだけかもですが。 しかし、愚痴ばかりだな。

と一転して、神々の声を聞くという話題です。
さて、よく霊能者で何かのショックを受けて、霊能が開いたとか神様の声が聞こえるいう方々がいて、それはそれでつづく人もいるし、だんだんとその能力がなくなる人もいます。 または極端な例として、廃人になる人もいるそうな。 危険性は常に考えないといけないと思います。 でも天の配剤で霊能がひらくなら良いですが、たまたま事故なんかで開いて、声が聞こえるとか、ビジョンが見えるという方はちょっと引いてみております。 どこに繋がるか分かりませんからね。
私もいろんな課題があって、回答を教えて下さいよと何度も懇願しているのですが、さっぱりなので文句をいうのですが、あちらからも耳元でどなっているぞ、と言うことらしい。 さてな、です。

そんなやりとりをしている途中で、やはり正しき神の声を聞くのはもっと時間がかかるのか、それとも無理なのかと諦めかけていた時に目にした言葉。 それは、天の声は静寂である、と言うことです。 外界から心に届く声が音が無くなったときの静謐さ、静寂さ。 つまり、あの有名なナレーション、”夜のしじまのなんと饒舌なことでしょう”と言うことか。 音楽プログラムと神の声についての比較はちょっと不遜かもしれませんが、静かな事にその奥かそれそのものを構成しているのかですが、いろいろ取り去ったなかに神の神々の天の声がいっぱい詰まっている、それは大いなる静寂でもある、というように考えることが大事なのかもと思うようになりました。
まあ、これはこれで哲学的でもありうまく運用しないと自己満足かも知れませんけど。

そう言えば仏陀も、形而上学的な結論が出ない問題には”沈黙”して答えなかった、と言う事になっていますが、その沈黙こそが答えそのものだったのでしょうね。 つまり聖なる沈黙こそが百万言の金言なる饒舌なのである、と言えるのかも知れません。

具体的な問題にその饒舌な言葉のどれを取るのか、が我々の課題と言うことでしょう。 どの霊層から、それは高いのか低いのかという議論もいるが、低いから間違っているとも言えず、結局受けとる方の問題が大部分なのかな、と思う次第です。