武と義

2019年8月22日

よく武の字を分解すると、戈を止める、で戈(ホコ、カ)を止める→戦いをやめる、という説明がありましたのでなるほどと納得しておりました。 しかし、実際は、武器を持って足をすすめるという意味らしく、止を”止める”でなくて”あしをすすめる”という意味にとらなかったからのようです。
支那をたまにはほめようかと思っていたら、やはり、やったるぞーという意味でした。

そして、たまたま千日回峰行を二度満行された酒井雄哉師という密教の御坊さんが紹介していた支那の故事ですが、義になぜ羊という文字があるか、という疑問についての説明を見つけました。
羊という動物がどういういきものかを知る話として、こんなのがあるそうです。 猟師が鹿を撃とうと山の中に入って行ったときに、鹿を見つけた。 さあ撃とうとして構えたらその前に羊が立ち塞がって、自分を犠牲にして鹿を逃そうとしたと。 そこで、自分を顧みず他の為に働こうとしていることを、自分のことばかり大抵考えている”我”の上にこの羊を置いた、というお話。
どれだけ信憑性があるのか、漢字に詳しい方から違うという指摘があるかもしれませんが、このように考える思想があの国(と言ってよいのかしらん。)に有った、というのはある意味再発見です。
しかし日本の鯨漁のように、羊というのも生きる缶詰とかアジア、ヨーロッパでは言われているようで、捨てるところがほとんどないらしく、ありがたい動物であります。 でもおとなしいから何も言わずに殺されるような気もしてちょっとそれを考えると、もっと自分を主張した方がよいのかな、とも思います。

しかし今の支那が義を言うとき、先人の故事を思い出していただきたいものです。 だから、正義というと、おれが正しいではなくて、正しい自己犠牲ということなんでしょうね。 つまり私が一歩も二歩も引く、ということ。 さらにこのような言葉もあって、「先に利するものは必ず滅び、先に義するものは反映する。」 そのまんまの意味です。

それと酒井師の言葉で、賢いバカになりなさんなよ、という言葉がありました。 私はただのバカみたいなもんですが、賢いくせになんでバカなんだろうという人いますよね。 今の左翼と言われる人たちがその典型でしょうか。 義を既得権益と思ってしまっているかも。