ヒモから考えたら・・・

2019年8月22日

”ヒモ”といっても、おねえさんにたかって寄生している男衆じゃあなくて、物質の最小単位とかいわれている事です。 朝寝坊のヒモが振えても、警察来るくらいかもしれないが、微細のさらに微細な空間では、ヒモが揺れるからものが生成するようです。 じゃあ、その”ヒモ”ってなに、となるのですが、組成よりも存在の成り立ちとして、点ではなくて、長さというか拡がりをもった弦を想定しているようです。 要するにわからんけど、想定しておくなにか、ということでしょうかね。 矛盾(0次元の点)を止揚して精神活動にさも似たり。 ならば、”想い”か、となるかも。

そんな、ふるべ、ゆらゆらとふるべ、ひとふたみつ・・・とついつい思う超ヒモ理論ですが、そんなとにかく発生している量子、原子、分子・・・と大きくなっていき、ついにたとえば人間の形になってきております。
そんな肉体舟(という表現が好き。泳げないけど)とともに人生航路を渡るわけですが、順調なひともいるし、残念なまま終わる人、つまり沈没としか思えない人もいます。
成人して争った後に殺した、殺されたという場面もあるでしょうし、むごいかな異常者によって幼きにも関わらず幕をとじさせられるという酷い犯罪悲劇もあります。
なんの問題もなく彼岸にわたるひとはどれほどいるのかいないのか最近ちょっと分からなくなってきました。

最近は一人で生きる、という無理難題を指向しているひとがおおいのでしょうか。 おまえもじゃないか、と言われては元も子も無いが、反省を込めて、この世は男女でいきるしかない、親子で生きるしかない、兄弟、姉妹でいきるしかない、広げれば、嘘のないところで一族郎党での生活、というのもこうなると人生渡海の秘訣かもしれませんね。
つまりこのような本来一人で生きるべきなのかも知れないのに、付き合う相手をもって生きているということは、端的にいえば、神をならうことではないのか、と思うようになりました。 ただし、出家というようなシステムも十分にというかこれはこれで確としてある、とも思います。

ただし、一般の社会生活や経済活動の発生と存続の基盤は男女という異分子どうしての相互扶助によってできるとしか思えない。 それは自分のコピーの生成によるこの世での実存の継続性をもいみしておりますので、結婚の意味ははてしなく大きい。
ところでものすごくむごく言うと、女性が中心で、この世の生命維持のための一番の障壁である、ウィルスに耐性をもつために男女に分けてある、という説もあります。 酷く物質主義ですが、女性は男性を大事にね、という感じですね。

脱線しましたが、一人で生きて一人で死んでいくというのは自分自身に対する裏切りでしょうかね。 個性だ、個人の勝手だというけれど、諸行無常で当然老いて行くし最後は死んでしまう。 それも全部経済的なサービスで対処しようというのはどんなものかな、と。 私は経済動物はご免こうむりたいと常々思っております。(と言って怠ける?) 或いは猫みたいに死を自覚するとどこか静かなところに行って静かに死ぬようなことは人間じゃあむりでしょうしね。

または、出家僧のように、過去現在未来をつらぬく宝をつかんで果てしのない自他の至福に至る、というのじゃないと残念、なんでしょうか。 これはこれで果てしなく難しそうだ。

それともスに帰るとか、ワンネスに還るとか、自分が自分としての事か、なんだか分からないけど、N-1がNに還ることなのか、ヒモは揺れるのでありました、

で、えーい(金稼ぐための)酒買ってこい! われは酔うのだ、哲学抽象論での遊戯は終わりだ。 銭や銭、銭! となりそうなところをぐっと、こらえる見栄っ張り。 我ながら本当に面倒くさいけど、そこが良いのだよ。 ヤマトの諸君。 でもアホなんだろうな、こういうふうにしか考えられないなんて。

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