東寺展

2020年12月11日

今週は時間がとれるので昨日の高尾山に引き続き仏教カテゴリーにて。
上野の東京国立博物館にて京都の東寺の立体曼荼羅を成す仏像が出張らしい。
これは行くでしょう!と言う事で東寺に向かう。
なかなかの盛況で女性の姿が多し。熱心に携帯型説明レシーバーに聞き入っている。

さて、東寺といえば真言密教。真言密教といえば空海。その空海の真筆と言う書も展示されているおお、これはすばらしい。
そして書以外でも見所が満載です。

原始仏教から部派仏教で別れ、大乗がうまれ、そして法華の一乗経につながり、最終的には生と性の分野にも誤魔化さずに大胆に理論と実践対応を構築した金剛乗(雑密から純密へ変化と進化、深化)という大きなながれはあり、それぞれの時代と場所で感得した尊格の威容がきざまれております。

多くの像がありましたが、ほとんどが”振動”していたようにかんじられました。
いつもと違うばしょですからね、驚かれているとか? またある(入り口近く)の書画に真言宗の八祖のかたがたの絵がかかれているのですが、複数の意識体か霊的なにかが入り込んでいるとしか思えない絵画もありました。(悪いものとは思えず。)

特に5大明王(不動、降三瀬、大威徳、金剛夜叉、軍荼利)に人があつまっていたようです。私は昔からお不動さんにご縁があるのですが、像としては他の4大明王、特に降三世明王が気になります。 理由としては、なぜか長年に渡り独自というか勝手に組んだ印が降三世明王のものだったのでした。 他者の活動を制止でるのかもと勝手に感じています。
それに、降三世明王の足元にはシバ神夫婦が踏んづけられいます。神(当時はバラモン教からいえば最高神)を踏んづける存在がいらっしゃって表現しているのがすごいなと。
ちなみに、なんで倒れて踏んづけられているかといえば、お釈迦様が悟りを開いたときに各神々はお祝いを言いにいったのですが、”私は認めない”と意地をはったのがシバ神で、それを聞いて怒った降三世明王が、”わしらの大将になるかも知れん方(お釈迦様)への無礼、捨ておけず”となり、たぶん、口に真言を唱え、手に印を結び、意想を決めてしまうと、あらま天部の神を倒します。 そして、後に反省して踏んづけられるのは許されたようです。(大日如来の言うことを聞かなかったからという説もあります。まあ、神話ですからね。)

と言うことで、眼福な一日でした。
そういえばはるか40年前に京都の東寺に行ったことがあります。そのときは薄暗いお寺の中が怖くてしょうがなかったと覚えています。時が経って見方がまったく変わりました。