寒いからねと

2019年8月22日

先日の”視えるんですか”で書いた内容の続きです。

その後なぜこの本で出てきている神社仏閣、聖地に自分が行っているのだ。 なぜ全部載っているだ、と考えておりまして、やはり私の失敗であることが判明しました。

各地にいったのは時期的にはバラバラでしたが、やってはいけないこと、その時にまだ準備が整ってなくていくべきではなかったことだと分かりました。

特に気になったのは大宮八幡です。 東京の杉並区にあり、井の頭線の西永福駅からあるいて15分程度の場所にある、欝蒼としたといえるほど樹木が多くよく保存されている場所にあります。
今日の昼過ぎに新宿にいたものですから、思い立ったらすぐ行動、時間もOK、ということで電車に乗って行きました。

しかし、到着したのはもう16時をすぎており、いわば黄昏時”たれそかれどき(誰そ彼時)”のこの世とあの世の境がでてくる時間帯ですね。 不思議と思い立っていくとこの時間帯が多い。

参拝はひたすらお詫びです。 ではなにを昔したか? 破壊活動なんてやってないですよ。
それは土地の浄化、神にエネルギーを与える、という昔は神行とよんでいましたが、その当時は善なる行動として、ある意味使命感を持ってやっていました。
しかし、今考えても、たかが数日の行というかワークというかで、土地の複雑な内容の解除や神との対等(?)の立場をつくれるはずもない。 子供のやることですからと言っていただけるとは限らない。 子供にだっていきなり脛をけらりたり背中をけられたり何か投げつけられたらけがをしたり深刻なダメージがあるかもしれません。
そこで、学習などがすすむと、土地の浄化や家族のカルマ解消(因縁解消)なんてとんでもなく大変なことがわかりました。 しかし、そのころは天から適したエネルギーがおりてくる、と思っていましたから怖いもの知らずです。 また本当に降りてきても何と感応しているかはわからなかったのです。

良かれと思ってやった、は今の私ではもう既に言い訳にはなりません。 だからこのお詫びさえももしかしたら外れているかもしれないのですが、幸いにもその行動の結果を判断できることが自分としてですがあります。
その一つとして、参拝後風景がくっきり見えるか、たとえば本殿の存在感がますか、と言った説明しづらい内容です。 そして本日は、たしかに風景や神社の建物がくっきりと見えました。ほっとします。
さらに挨拶して帰る路ですが、向こうから犬をつれた老人(男性)が歩いてきます。 特に気にしていなかったのですが、だんだん近づてきてほんの眼のさきに来ると急にたちどまり、にこにこしながら

”もう寒くなるから上に羽織るものを着なさいよ”

と話しかけられ、また立ち去ったのです。 会ったことのない知らない老人です。 (ちなみに見えている人です。)

あっ、これは今回の訪問は確かに成功した、と気付きました。 またこの男性は私がまだ聞こえないので、間違いなく言わされたのですが、神に心配していただいた、まるで母親のような言葉です。
本当に有りがたいですねえ。嬉しくなりますねえ。

他の場所にも行った方がよいでしょうが、すぐにはなかなか行けないので、家の神棚を通してお詫びすることにしました。 いける機会があればまたお詫び行ですね。

やはり日本では何千年も歴史のある聖地も多々あります。 人々などの真摯な祈りが積み重なっているし、またはもしかしたら呪詛もあるかもしれないのに、そこをどうこうしようなんて考えたら恐ろしい話です。