自由、平等、平和とその陰
自由、平等、平和というのは耳に心地よい。 というのは、不自由、不平等、不平和というか戦争が意外と好きな人は多いですが、やはりたとえば自由というのはすばらしいですからね。
物語としては、不自由で不平等なたとえば奴隷が、自分の境遇に我慢に我慢を重ねたけど、自由・平等・平和、というテーゼを知って、それを阻害する人や仕組みをみつけ、その解消は話し合いでは到底無理で、たいていは、嫌々だけれども”武力に”訴えてこれらの三つを獲得して、大団円、というのが好まれるでしょう。 それほど人間のカルマは複雑、重層的で、心底は生きるエネルギーがあふれて活動相に移行するのを望んでいるからだ。 なんといっても、これがいわゆる”神”の一つの意思であるからである。
さて、それほどまるで制御できない暴れ馬と言うか巨神兵みたいなエネルギー体が自分であり、あなたであり、横にいる人であり、かなたにいる人であり、昔と今と未来に生きるまた死ぬ人たちの特性なのである。
ちょっと話がずれましたが、そんなわけで要するに人間いろいろ、社会も国という集団もいろいろであり、文化・文明・哲学・政治・経済・・・というその集団で基本となっている”型”はたいてい天才が考えて以降、普通の人たちが醸成したように思える。
またまたずれましたが、つまり、今の友愛がいかに危ないかはもう周知のこととなっていますが、平等も大変危ない思想であります。 悪平等というちょっとインパクトの弱い言葉で反論されることが多いですが、恣意的なものをまだ感じます。
そこで、仏様にお出ましただきますと、平等大慧、という言葉に当たるわけです。 この宇宙にある一切のものは平等である、が真理ですが、”型”であるこの世界、社会ではそれに慣れていないと回路がうまく作動しないので”差”が生まれるのであります。
本来は平等だけど諸相においての差がある。 それはそれで尊重しなければいけない。 これこそが一見矛盾に見える大きな智慧、大慧である、という意味です。
ただし、ちゃんと理解しないと不当なそれこそ差別につながりますので、尊賢たちの言葉は深く理解する必要があるのでしょう。
今日、あるお寺のお坊さんの話を聞いていて思案したしだい。
なお、どの宗教もすべて平等です、というのは平和や個と全体の幸福を希求するならば到底信じられません。 ”宗教”の部分を、経済や政治、にしても同じです。
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