光が強ければ闇も・・・
島根件の神社に行ってから、その訪問を伝えていない人がいるのを思い出しました。
それでその方に何度か電話するもなかなかつかりませんでしたが、ようやく電話が通じました。
その方は霊能者でその物部神社に何度も呼ばれて行ったとの事です。
・・・
”・・・で、ようやく長年の課題を果たせたようです。”
”あら、そう、よかったわね。 やっぱり、違う、って感じでしょう。”
”そうそう、存在感、そこに在る、という強い感じがしました。”
”そう、それそれ。 なかなか言ずらいけど、そんな感じ。でも誰でも感じるかは分からないけどね。”
”なるほど、しかし、正直、これが変わった、能力が出た、というのは明確には無いんですよね。”
”いえ、・・・、道が開いているかも知れませんよ。”
”道というと。”
”それはその神社のもっと西の方にある、ある(故ありて秘密)に今度は行かざるを得ないかもね。”
”ほほ、そういえばそんな場所に行って、あるものを発見する夢を何度も見ていますよ。”
”それも、関係するでしょうね。”
・・・
と、かなりドスピな話が続きます。 ここ数度は電話の電池がなくなるくらい話が長い。 それがとても面白いのですよ。 全部書くと、頭大丈夫? とか、下手するとお花畑?とか言われそうだ(笑)。
そんな話の中で、光と闇の話をして、いかにスピが難しいかを感じることがあります。
ある仏教系の宗派で荒行をすると、たいてい霊能力が開いて、浄霊とか慰霊とか、または悪しきものを弾き飛ばすとかとか、いろいろ技がつきます。 そして、たいていは最初のころは純粋に人助け、霊助け、社会に奉仕・・・と思いを込めて行います。 そして、その境涯に適した霊や存在や情報網が開けてくるようです。 これはどの宗教も同じようなことを言っています。 しかし、だ。 面白いように物事が成功するのが続くと、あれ、あの人は人格変わったなとかなることも多いようです。 その方も同じく、雰囲気がおかしい、言動が変わった、よって気色悪い、と。
しかし能力が落ちているわけではないようです。 しかし、善き所にあけた通路(天空にみえるそうな、わたしゃ見えませんが。) の先が明らかに変わっているそうな、
能力援助をしたのは、実はあるときから悪しき存在であったようです。
つまり、高き神や仏や霊にアクセスできていたのに、心境の変化や、何らかの手違い、不都合で、高き存在に見まごうばかりに、悪しき存在にしっかりアクセスしているようです。 この変化はある日突然であったようです。
高い神の裏には、強烈な悪魔が虎視眈眈と影響を及ぼすのを狙っているようです。 だから日々の精進を欠かさないで神事、仏事に向かわざるを得ないと。 簡単にいえば、超リスキーが基本だ、と言うこと。 この意味で安易なスピは危ない、危ない。
光あればこその闇、葬られた可能性、と私は呼んでおりますが、まあそんな理屈を言う前に、現実に困ることが起こっているようです。
しかし、強烈な悪魔に狙われるのは逆に言えばそれだけ強い力や可能性があるからでしょうか。 転ずれば大能力者ということです。
しかしここで考えるに、大能力者であればあるほど、同時に大人格者であるべきなんでしょうね。 その人の何とも言えない風雅や薫風があれば、それは霊能力ではなくて、人格感化力なのでしょう。 その時に初めて神も悪魔も合一して、まったきものになるのかもしれません。
そんなあとのことは兎も角、愛、平和、善を唱えれば唱えるほど悪しきものがそれらと一緒にやってくると思ったほうが良いかな、とおもう日本の夏。
そうすると変な政治団体が何故あんなになったのもわかるかな、と。 いろいろ考えてみました。
やはり、中道を往け、と言うことかな。
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