神々のシャドウ

2019年8月22日

日頃いろんな方(存在)からコンタクトがあると、いろいろ考えてしまいまして、なんで神たるものが祟るのか?神のくせに人間ができていない、(論旨矛盾)と常々思います。
そして、皆様やスピ系の方々のページやサイトをみてみると、神は愛と平和にあふれ、常に私を導き、助け、素晴らしい気分にさせてくれます、というものばかりです。 ああ、私とはまるで違うなああ、そんな風に強く思います。
どこどこで何々神のエネルギーを感じたとか、愛の波動とか聞くとそれはようございました、でも本当?と邪推したりします。
しかし、たぶん本当でしょう。 神は鏡の如し。 だから心がすさんでいると神も荒み、心が祝福で満たされると神も平和だ・・・、でもこれもまだ未完成の考えだと同時に感じます。

さて、大乗仏教では、六道輪廻という考えかたがあります。 インド伝統の考え方でもありますが、要するに上は天部の神々から下は畜生、地獄まで世界があり、この世の身体心の行動の結果がそれに続く道、つまり神になるのか人間かはては・・・とカルマ論とともに導かれる世界観です。 そして、この六道は実はこころの状態で、人にも神にも、または菩薩にもあると。 如来は脱しているからない。
一般的に神、と呼ばれる存在は、過去人間であったり、自然霊のままだったり、天体にある神霊であたらいさまざまらしいですが、みなさまこの六道を持っている、つまり普通に生きている人間が時にそれこそ神仏みたいな状態から、悪の限りを尽くさんとする心、よく阿修羅のようだと言われる状態を程度の差はあれもっているはずです。 それは実生活していけば合点がいくはず。
時々変な事件も、えっ、あの人が! というのは日常茶飯事。
そんな状態が神々の”心”にもある、と言ったのは仏教で、また常々接しておられる皆さんも感じるのではないか、と思います。

人間では自分の嫌いな性格や人の行動や考え方を集めて、こいつだけは嫌だ、というのがあなたのシャドウ(もう一人の自分)だといわれます。 この考え方は聖者と殺人鬼の両方をみなが持っているようなもので、怖いものです。
しかしそのような面をしっかりととらえて、昇華、合一することがどうも人生の課題の一つでもあるようです。 つまり矛盾を矛盾でほおっておかずに解決策を考える必要性はだれにも要求されているようなものです。

こんな風に考えると、神々も完全ではない、が共通的な考えであり、好き嫌いがあり、またこのような”心”の動きがあると思われるのです。 日常的にかんじるものからですが。

例えば観音も愛と慈悲にあふれた面とその変化としてもっていますが、この世のすべてを破壊せんとする阿修羅もその一つです。  そうなると障碍の行動も分かるのであります。

神もより高い、より完成された神を目指すということかな、と自分で自分に言い聞かせて無聊を慰めるのでありました。 神は神なだけにそのシャドウも(あったとしたら)強烈なのでしょうか。