常識を疑え 涅槃寂静
私の名前は多分日本に一人しかいないのでは、と思う名前で、心と言う文字を含んでおります。
そして小さいころから般若心経をなぜか憶えて、なぜか一日も欠かさず毎日仏壇の前で唱える。
読経していくとこのお経の中身はどのような事がかいてあるのかと自然と疑問がわいてくる。
多くの解説本を読んだり、並行して仏教関係の本をさまざまに読んでみたりしておりましたが、ほとんどの解説本が、このお経は”空”の大事が書いてあって、それを観音さまが仏弟子の長老におしえているのだ、と結論づけておりました。 ここでは”心”は”精髄”の意味で大般若経からエッセンスを抜き出したのだ、という理解。
しかし、まじめというか素直に読むと、宗祖仏陀の教説を無茶苦茶否定しているように思え、どうにもおかしい、でも皆が読んでいるし、なにせ”仏説”だから・・・と理解未熟なまま置いておくようになりました。 無理やりに理解できなくもなかったし。 つまりこれは人に有らず、よって人と名づく、みたいな理屈です。
そのうち良い出会いがあって、このお経はそもそもお経の要件を満たしておらず、詳細はさておき、経とはいいずらく、結論として”真言”の大事を説いたものである、と理解できました。 そうすると多くの疑問が解けるのです。 そして末尾の経は付け足されたものであると。 しかし一定の効果というか役割はあるのでしょう。 それに大乗仏教の言う”空”の思想はとても大事なことに変わりはない。
さてこのような常識をひとつ滅した後で、さらにというか大事な内容をしるきっかけをこの経(と今は言いましょう)は教えてくれます。
それは三法印という考え方で仏教の根本思想。 諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。 尚、一切皆苦を入れると四法印と言う。
最終的には涅槃寂静を目指すわけですが、これを、サンスクリットのニルヴァーナから、すべての煩悩が吹消されて何も悩みが無い状態、という解釈が”常識”のはずです。
しかし、さんざんに修行してなにか何もないような状態、少なくとも苦はないが、楽しみも無いのかと思わざるを得ないように感じます。 なるほど、生きていると悩みや苦しみは雪崩のように起こります。 心がけ次第とか努力不足とかいろいろ言われてもその人は心を制御する方法や手段を大抵は教えてくれないので説得力がないのが普通。 だから煩悩の火が消されて悩み苦しみがない平安な世界、というものは魅力的とは言えます。 但し、毎日うきうきして悩みも少なく、また悩みが無いのが悩みです、みたいな人もいるのも確かなのでこの人たちは原理原則からはずれているのかと訝しんでしまいます。
しかしここにも常識の罠があります。 涅槃は原典のサンスクリットであるニル・ヴァーナではなくて、ニル・ヴリと言うのが原義で、覆いを取り払うことが元々の意味の模様。 つまり結論を急ぐと、”固定的な観方をしない自由自在の境地”ということになります。
まさしく観自在菩薩の活躍の物語なのです。
消滅とか、吹消すとか消極的な自殺みたいな境地を目指さないと分かり、これは大いに嬉しいものであります。
今後は、では他の根本原理である、諸法無我、諸行無常も固定的な観点はあくまで参考でさらに考えて行きたいものです。
特に、”無我”は疑問満載です。 というのは、仏陀最後の説法は、”自灯明、法灯明”でした。 ”自らを寄る辺にせよ”、です。 こうなると”我”がないわけがないですね。 多分修行の段階、進み具合によって真理に触れる前で外的な要素やカルマに追いまくられる非我と言える状態から徐々に段階が進み、”非”という覆いが取れてくるのかもしれません。
参考「真釈 般若心経」
ちなみに、この参考本というか内容を自分なりに咀嚼して上を書いて言うのですが、この本の中で分かる事は、空海は天才だ、と言うことです。 さすがです。 本当に尊敬します。
自分(空海)は霊鷲山にての仏陀の説法の場にいた、と告白するところがありますが、ぞくぞくします。 学者達は認めないでしょうけど。
心が真言ということで、サンスクリットはフリダヤ、と言いますが、自分の役割がちょっと(じゃあ遅いかもだが)が分かったような感じだ。 そして、まさしく言霊の日本神道の精髄にも通じてくる。 そして最終的には障壁は無碍なる状態を目指そう、と言うことで仏教が目指す世界は実は、創造的で明るいのだと理解をしました。
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