内在の神

2019年8月22日

(長いです。)

木枯らしの季節に入りましてまた”愛”とかお尻がこちょばゆくなることを考えていて、さらに最近よく聞く”内在の神”について考えました。

ある歌手のイベント会場に仕事の関係で参加しました。 まだ有名な歌手のかたではありませんでしたが、そのイベントを取り仕切る方が女性の社長で、忙しく働いておられました。
一通りそのイベントも無事終わりになり、お客さんを送り出したあと、それでは記念写真でもということになりました。 私が、「社長、今回のイベント成功でよろしかったですね。」などと、一通りの祝辞を述べたのですが、ちょうどタイミングがよかったのか、感情が高まっておられたのか、とてもうれしそうな顔をしておられました。 やった!、という達成感があったような感じがしました。
そんな時、では写真をと思うと、いきなりその社長の胸の辺りが光輝きだしました。
そのちょうど体を包むくらいの大きさです。 時間にしてほんの数十秒でしょうか。
写真も撮りましたが、本当にうれしそうな顔をしておられましたね。

顕在意識がいわゆる現界の自我であり、潜在意識に冷厳と紫金の光をはなつ自我、真我、があると申します。 自我と真我がぴったりと同じ方向を向くことはなかなかないかも知れませんが、同じくいわゆる心の底からうれしいとか、何らかの偉大なる美や愛を感じると、自らの神性、仏性が輝きだすもののようです。
それこそが内在の神というものでしょう。 ”いのち”と読んでも”聖なる本能”と呼んでもよいかもしれません。

そして”神は鏡の如し”で、自らの心にうつる神と隣の人にうつる神とは違いがあるかもしれませんというか違うでしょう、 ここが単に”内在の神”と言っても、それがどうした、ということになるようです。 その反動で外在の神を求めて、ころりといかれちゃう事もあります。

ところで仏陀のこころに移る神(ダーマ)と私が感得できる神では、あまりにかけ離れております。(考えるだけでも恥ずかしい) 神を体現する人の心に映る神、神そのものに上下はないですが、それを外在の神と言うものです。 だから”内”と”外”の区分は、案外あまり意味がないように感じます。 それに”外の神”と言っても、それこそ竈の神様から、一族の神、民族の神、国の神、地球の神、宇宙の神と神だらけですな。

自らは神、子神(または現津神、あきつかみ)、と言っていますので、本来は神が神を拝んでいたりあこがれていたりしているのであります。 それは存外秘密の話、とか言われていました。 これに加えて心の多重構造と空間と時間の広がりと流れがあって話がややこしくなるのですが、人としてかつ現界で生きて、人の道を究めて神に至り、(その神を指標する指針が聖者と呼ばれる方達で、仏陀も、キリストも空海も、アブラハムもムハマンドがそう呼ばれた人たちだと思います。)ついには真理と一体となる。太極から陰陽をめぐりまためぐりついに(新しい)太極にいたるというイメージです。

その聖者の胸にはっきりと映る神は、また多重であるが、その神が信仰する神に行き着くよりよい方法だ、と言うことらしいです。 まさしく密教の言う三密による方法。簡単に言えばヨーガ。
そして、いわゆる究極の神、とか久遠実成の仏とか、アノクタラサンミャクサンボダイとか、遠津御祖神とかいろいろ呼ばれております。

この構造を理解するには、仏教が応身、報身、法身といってうまく説明してあります。 法身に行き着くにはその神を体現した聖者たる仏、報身を通してみるべきであり、その報身は応身が真理とともに教えていただきます。
この場合の例として、
応身・・・仏陀
報身・・・阿弥陀仏
法身・・・仏母、大日如来
(キリスト教だと、父と子と聖霊でしょうが、このような考え方はしませんね。)
現界の人が、すっと究極の神にいけそうもないのは、存在的に電気で言う”ショート”するからです。 ほかの言葉では、大きすぎる愛、恩寵を受け切れない、と修行者たちはおっしゃるようです。

しかし、この世に近い神や仏や尊霊と呼ばれる存在と一緒に仲良くさせて本当に生きらればこの世的には成功だと思います。 それは大事業だと思います。 硬くなりますが、天命、というものかもです。

いろいろ書きましたが、やはり内在の神の意向をよく聞いて、この世の春を作り謳歌したいものです。 以前書きました”神遊び人遊び”とはこの意味でした。

しかーし、こんなことばかり考えていると浮世離れしますので、いかん!と思ってまたパソコンのキーボードをぱちりとはじくのです。
(しかしいろいろと考えがまくリンクしましたので書いた次第です。)

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