馳走とジャータカ

2019年8月22日

「馳走」という言葉の語源ではないか・・・

一般的には「馳走」は客人をもてなすために馬を周りにさんざん走らせて食材を調達するのの意味である、との説明があります。 そしてその結果揃った料理を丁寧にいって、”御馳走”となる、と。
なるほど、そういうことか、と思っておりましたが、もっと前に語源があるのでは、と。

ところで、お釈迦様の前世は”ジャータカ(本生譚)”にまとめられており、御自身の前世の菩薩行として人間であった時に飢えた虎にその体を与えるとかの物語があります。
前世では人間以外の動物にも生まれたときがあり、ウサギであったときもあるそうな。
そのうさぎ、・・・

偉大なる修行者が真剣に修行をつづけていたが、ついには食べるものが無くなった。 そこでそれに気がついた動物たちがあるものは、木の実、あるものは野菜、あるもにはあるいは魚をその修行者の前に持ってきた。 料理が出来るのということで火を薪に火をつけて準備をしようとしていた。
修行者を憐れんでいた動物たちの中には兎もいて、いろいろ食材を探したがどうしても見つからなかった。 そこでそのウサギは、修行者に向かって、”何も食べ物を差し上げられません。 だから私を食べてください。”と言って、”馳走”して火の中に飛び込んだ!
すぐにその火のなかのウサギを修行者は救い出したが既にこときれていた。 そしてその修行者はその行動に感動してその焼けた体を頭の上に差し上げて、つまり”頂き(頭の上)”に置いて感謝した、ということです。 ここで”頂きます(貴いその行動に感謝します)”という意味になったそうです。

この世に生きていくことは何かの命を奪うことの側面があります。 この矛盾はほおっておくと必ず修羅の世界かものすごい嫌悪感をこの世に持つようになります。 しかしこのように愛行実践者もかならずいるというのは大変な救いです。

犠牲ということよりも、修行者=真理を追究しあるいはそれに到達しつつあるもの、という行動をおこなう者に供養した、真理=天と人が到達できる究極の神への大いなる畏敬、いという意味の方が強いようにも感じますが、何しろなかなか出来ることではありません。

馳走の語源が本当にこれかなんとも分かりませんが、逆にこのような語源であってほしいと思います。 日本語や風習などには仏教からきたものが多くありますのでこれもそうかも知れません。