ウィルスも生きている

2019年8月22日

現在の宮崎の酷い状態は俯瞰すると、どう考えても”被害拡大”と言う観点からだと人災であります。 何とか自分に出来ることはないか、と考えましたが良いアイディアが浮かばす、せめて新宿の南口の宮崎のPRしているお店にある募金でも・・・と思うくらいです。

牛や豚がどんどん殺されていくのは耐え難いのですが、確かに食肉とどう違うのか、と言われれば言葉に窮してしまいます。
その命をいただいて自らの命にする。だから『涓水(けんすい)一滴も天地の力を尽くし、米粟一粒も万民の労をおさむ・・・・・』と続くわけであります。  ほって、単に殺されて土の中でもがき苦しむというのは創造するも辛い。
しかしさて、その命をいただいて何をしているかというと、自分も含めて恥ずかしい思いをするでしょう。 こうなったら、牛などの家畜は人間に食われるために存在している、というキリスト教でも入ると楽だなあ、とか絶対にしそうも無いことがちらっ、と頭によぎります。 しかし、その考え方やそれをベースにしている行動が選民思想に安易になって、いかにむごいことをするかは歴史が証明しております。

愛とか平等とかの欺瞞はここにあります。 一切を作った神の前には、人間も牛や豚や、あるいは草花や引いてはウィルスさえも、いとしいわが子かも知れぬ。 神の御心は分からないのです。 牛や豚は殺してかわいそう。 それにマグロやイルカも食べたらかわいそう。 でもウィルス、菌はたたき殺せ、では一切に愛を与えると言って居られるユートピアの住民の趣意に会わず。

となると、棲み分けをするしかないのであります。 出会うべきところでない場所と時間で出会ってしまって、宿り主と思わせなければ良いのであり、この試行錯誤は何億年もやっているはずです。 何か事件があったに違い在りません。

生き物は自分に近いほど感情が近いものです。 だからウィルスや菌より、牛豚、犬猫がかわいいし、出来れば殺したくないのでしょう。 母体より生まれるという共通点を考えてもそうですよね。
ここに、歴然たる差別があるのですが、ただし、ウィルスも殺されたらたまらんんということで反撃したり、子孫を猛烈な勢いで増やすのであります。 それこそ差別するなよ、でしょう。

しかし、われわれ人間は断固差別して排除するのであります。 ウィルスに対して殺に殺を重ねるのであります。 しかし、考えたら人間そのものに害は直接与えないのですから。おかしい話です。
それはなぜか、人間の都合であります。 その”都合”とは何であるか。 単なる経済活動のためか(とは言っても人間にとっては存在にかかわる事態)、ある目的のために必要不可欠であるからか、じゃあその目的とはなにか。
せめて自らと社会と神と仏とに存在を許されている意思に沿っているか。 そもそも自分で納得しているか、とどんどん意義を問い詰めるわけであります。
何も出来なければ祈るだけであります。戦線離脱ですが。

そんなことを考えている昨今です。