その目的

2019年8月22日

年齢も中高年の域に届いており、いやだなと思うことは、誰が死んでもさほど驚かなくなったことです、正直なところ。 そんな話を田舎の友達としていたとき思い出したのは、昔葬式に行くと言うのはなんだか幽霊が怖いといよりも、”死”と言うのが理解できないことでした。 そして、皆が死ぬと聞いて、いや自分だけはもしかして違うのではと空しい事を考えたり、気に入らないのは早く死ね、好きな人はずっと生きてとまあ、これも正直な事を考えていくようになりました。
しかし、やはりどんな原因であれ動かなくなった冷たい身体を前にする葬式というものに参列するのは気が重くあったのですが、不思議と年寄連中は笑いさんざめくような事も何度か見聞きするに理解出来なかったですが、年齢を重ねると、その不謹慎だと思っていた態度がなんとなく分かるようなるものですね。 つまり、”あの爺さん(婆さん)、往生しなすった、目出度い”と。 ”目出度い”???

現実の生活は、死ぬより辛い事はいくらでもあると思いますし、自分に直接関係ないような戦争での死亡、飢餓や食糧難での死亡、伝染病での死亡等々日本ではめったにない事は世界には多く広がっております。そして日本でも生活苦で餓死したという報道がされていました。 気の毒でしょうがないです。 私の知り合いも(同級生)も、お金を貸してほしい、と言えずに死にました。 気の小さな男でした。
死ぬ気になれば何でもできる、というのは元気のある奴のいうことで、世の中にはプライドが邪魔するならまだしも、本当に気が弱くて、嘘も言えないような人が多くいます。

さて、そんな内向的な遂には命まで危うい状態の人に対して、ベンツに乗って生活保護受給の人もいるようです。 世の中矛盾していますね。そして対応する方は面倒くさいからやっとけや、という本音が聞こえるようです。 そんな酷い状態を見るに、こいつらは確かに詐欺師でどうしようもない唾棄するような心性の奴らでしょう。 しかし、擁護する気はさらさらないが、そうまでしても生きたい、というかと思うとその生命力は実は神の愛して給うではないか、と心配になります。

世の中では政治経済、社会の動きの根本という思想や哲学と言うものがあると思います。 そして今の世の中の不安定要因はテロとかいろいろありますが、共産革命主義思想であり、何が悲しいのか嬉しいのかよく分かりませんが混乱の大きな原因でしょう。コミンテルンという言葉がネットの普及で人口に膾炙されるようになりましたが、暴力革命Okですから考えたら非難するのもちょっと考えてしまいますね。

さて、細かな話は置いておいて、ではなぜこのような経済学がベースで神を認めない思想が出てきたのでしょうか。 元はユダヤ教というかセム系一神教の争いと言えばそうではないでしょうか。 神を認めないと言いますが、無神論という神をたかだかと崇拝しているようです。 無印商品というブランドみたいなもの?

原因は複雑怪奇に絡み合っているのでしょうが、今の混乱の大きな要因は宗教であると思います。 そして、それは、誰が救済者かの争いになります。 ようするに、誰が本当のキリストか?という相容れない対立です。 イエスなのかヨハネなのかその他か、それともまだ出ていないのか・・・ということです。
一神教か多神教かというのは実はそんなに厳しい対立軸になるかは疑問におもうようになりました。 神は一つだがそこから分かれたとか、中心の神はだれそれの神で・・・となる可能性あります。 問題は、誰が救済者か、の裏に確乎としてある疑問、一体そもそも我々はなんであり、どこから来てどこに行くのか、この世にあるのはなぜか? という長い長い間の問いと一部の人しか分からない答えと、本当とは言えないごまかしか、慰めかはおいておいて、考えるのは止めようということになります。

私の守護の神からバイブルは結構正しいと言うことを昔聞いて、ちょっとキリスト教を勉強してみましたが、はっきりいて簡単と言えば簡単です。 そして、最後の審判の考えは意味がないですね、既に予備審査で決定していますから。 と、問題点をついてもしかたなく、そのキリストと言われるイエスというひとも元々エジプトで錬金術をならっていたとかいないとか興味深いし、さらに言えば、多分仏教の強い影響を受けていると思われるグノーシスという考え方や神智学と言われる思想の展開は、単にキリスト教がどうのというよりも、人間が考えるであろう存在の不思議の答えをさまざまに用意していているようです。
つまり、この世は悪の神が作った、だから悪徳と欺瞞に満ちているのである。 もともと我々はプレイローマという至高の神が支配する理想的な世界にいたのだ。 そこに帰るのが本当の我々人間の魂レベルの、それこそ”救済”である、という考えたかです。
旧約の神はあまりに無慈悲で(約束された民族意外に)残酷で、これをイエスというパリサイ派の能力者が愛の神に変容しましたが、磔刑になりました。 ならなくてはいけなかった、と言うシナリオでしたのでしょうか。 至高神界からの?

しかし一方仏教という瞑想と肉体で祈るという技法、つまり救うと言うのなら、自分を救うのは自分だ、と言う思想。 そしてそれは至高神への目覚めの要因も含んでいるようだ。 さらに、物質のみ栄耀栄華を目指す近代文明という宗教、さら既出の宗教や思想と異なる、”道”という中国老荘思想や、祓いに祓いという清明心と素直さを大事にする日本神道というラインアップもあります。 宗教は食べ物の好みのようなものですから、自分の思考パターンや思想に合致したもので良いのでしょうが、自らが自らであるために何故茲に私はいるのか、の答えは自分で探さなくてはいけないようですで、何教徒であろうとも、と思います。 そして正解は共通の答えと個々人によって微妙に違う気がする。

まとまりがつかなくなったからこの辺で。 読んでくれた方、ありがとうございます。

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