愛欠乏症
仕事仕事の毎日ですが、閑話休題、という感じで”愛”について話す機会がありました。
(直江兼継の兜も、”愛”なんですねえ。)
すこし照れくさいが考えると・・・
子供が怒ったり、泣いたりして感情を爆発させ、果ては熱を出したりするのは、親や周りの”愛”が欠乏だと言う話。 さもあらんです。 存在理由を疑わしくするような態度はまずいでしょう。
受ける愛は実は結構あるが、愛不感症で勝手にいじけていたり(いっている本人もその気は強いかも)、本当に愛を受けられない環境にいる(これもだトホホ)、とかの場合もあるでしょう。
これは大人になっても同じであるな、と思います。 でも愛を独り占めしようとする傾向も人間にあるようです。あまりに気持ちがよいもので、っていうところかな。
死ぬまで愛を求めて愛にさすらう、これは存在論に行き着きますね。
何故なら、認められて存在するのか、実は結構不安であるからです。
そんなとき考えるのは、神道の言うところの、”成り行く存在”ということ。 愛に囲まれた(実は)明日の自分は何に成っているのか、わくわくできるような感じです。
空虚に成りがちな存在論からの脱却ということです。
という感じで愛を思うに、わが身のあり方を考える。 渇愛もある。 慈悲もある。惻隠もある。愛はいろいろだな、と。
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