普遍への回帰か個性化か

2019年8月22日

スピな話を続けておりますが、ここで少しまとめをしようかと。

これを言ってしまうとひと段落ですが、過去、今、未来と時間軸で取られて喜怒哀楽の感情をもって、知識を得たり、能力を得たり、失ったり、あるいは殺しあるいは殺され、或いは神に会いあるいは悪魔に会う。 こんなことの繰り返しをしております。

人類の戦争、裏切り、血と暴力と権謀術数の歴史をみた際に、自分とはなにか、集団とはなにか、生きる意味は何か・・・といろいろ疑問や絶望が襲ってきます。
しかし一方、花は花で美しいし、朝日も夕日も胸が躍ったり感じ入ったりするものです。 人生は一幕二幕あるいはそれ以上の演劇である、とも言われますが、上のような状況にいたると、ああ、帰りたい(回帰)か移りたい(変わりたい)と思うはずです。 その方法がわかればよいが時として自らに最適な方法はお試しの中で分からなかったりするものです。

回帰、それはそれで母の懐に帰るようでありますが、それは普遍の坩堝に投げ込まれることです。 あなたという、そして自分というものは消えます。 本当にそれでよいのか。 この世の苦痛に耐える意味はあるのか。 そして、変わりたい、と言うことこそ“個性化”です。 この個性化こそがその人とその人にならしめる旅であり、目的地である、そしてさらなる目的地をおしえてくれるものです。 これを持って輪廻からの脱却と呼ぶ。
他の言葉言えば成仏であり、自らの霊性が過不足なくある方向性をもって合一している。(神人合一)
しかし回帰も個性化も一見両極のように見えるが、回帰する場所からその力、智慧はくるようだ。 往相・環相なり。
そして輪廻の脱却からの脱却こそが自由自在である、世を観ること自在。 観音の位なり。 そして美の創造、自らの浄土の建設が始まる。 阿弥陀仏のように、他の仏のように。 宗教の呪縛から抜け出た神のように。
そしてこの世に大感謝。 すべてはすでに用意されていたと。 それを輝かせる一灯こそ自らに違いないと。

こんな言葉が出てきました。