動と静と;般若と浄土

2019年8月22日

世の中にいろいろな宗教や哲学、思想がありますが、日本に居ると神道が基本で日本式仏教が精神的に多大な影響を受けるように感じます。 中には純粋な神道とかまたはキリスト教等などが原理主義的な事を主張しますが、あまり成功しているとは思えません。

そこで、私は縁がありまして仏教を学んでおりまして強く感じるのは、日本仏教はやはり日本の精神風土に独特の形になっているとおもうのであります。 だから、異端だ原理に戻れとかはいう気はありません。 と言うのは、仏教徒はこの世界と宇宙を貫く真理について、またこの真理においてこの世とあの世との説明をしてくれたり考え方や行動の規範、または集団としての保健や規律を教えてくれていただいている、と思っております。
だから、変かもしれませんが、キリスト教の中にもイスラム教の中にも、または世界各地の宗教等々にも仏教の教えは息づいている、と考えております。 ただし、啓示的な宗教や教え・考え方には常に注意をしないと、わしの田んぼにけちつけた、と日本式に言えばそんな許しがたい感情を持たれるのであります。
よって、ここ日本では神道基本(人間は神の子の積極思想)でもって、開いた仏教であります。

色々な宗派があり、奈良仏教系や天台系、鎌倉仏教系、密教系というような大まかな区分がありませす。
本来ならば、宗派を仏陀は喜ばず、なのですがそれは、いろいろな気根の人がいるからそれは、巧みに説法せよ、と言う事なので結果としていろいろな宗派ができたようです。
どんな思想でも分派するのは、個性化の違いに他ならないとおもいますが、本来は中庸を行かねばならないはずです。
とはいうも、一つの考え方として、宗教やまたは信仰者として、智に強いか、情に篤いかという区分は人に対して出来そうです。

例えば、般若経系は智に強く、浄土系は情に篤いように思えます。 般若系は空という理論で徹底的に仏教の原則を否定しまくって、その後に残ったものが本当の仏法であるという智の獲得を徹底的に要求してくる感じですので、智に長けんとするものは猛烈な意欲を沸かすでしょう。 これに対して、大いなる先達である阿弥陀仏の御許でこの世で出来なかった修行を極楽でしようというモラトリアム的な発想であるが、そのような慈悲を頼りに生きる事もあります。
まさしく自力と他力の違いであります。
尚、阿弥陀如来はイランのゾロアスター教の神の影響云々と言われますが、その本体は観自在王如来でありますので、あくまで報身でありますが、その背景には法身である至高の仏がいらっしゃいましていうなれば、”至高の自在(=神)を体現している至高の聖(報身)”ということになるのでしょう。 アミターバまたはアミターユスとよばれ、そしてルシャナ(ビルシャナ)如来の光明無量遍照と寿命無量の共通項である、無量でもって”阿弥陀仏”となったわけであります。
光が智慧であり、寿命が行動であり、これは心と体とにも対応しているのであります。 だから最終的には”ナマンダ”までに人口に膾炙されたのでありましょう。

このように人の違いにより、よろしくも法の説き方が変わってきたというのは慈悲でしょうが、特に浄土系の思想はこの世の修行なんて…というように軽視する可能性があります。 さらに問題なのは自分を限りない罪人という心と体に良くない心根に陥る可能性もあります。 また逆に、自らの力、智慧や人格や修行実績、を余りに過信すると増上慢になる可能性も大であります。

よってどちらにしても、大きな陥穽があるように思います。 元々は個性によって智と情に力点を置いてだけであり、本来は中道をこそ往けであります。特にやはり浄土系の方が原理主義的になりかねないです。 厭離穢土欣求浄土などと為政者に踊らされる可能性や原理主義になる可能性が高いです。

両極端を捨てて中道をとれと繰り返し言われておりますので、どうしても極端になりそうな我々に具体策として八正道という心身の方があるわけです。(まあ、私がどれだけ出来ているかは言いっこなしで。)

例として般若系と浄土系を上げましたが、たとえば末法思想が広がった(いつの世でも広がるな)、鎌倉時代で総合宗の様相を呈していた天台宗では宗派というか経典の統合を図っておりますが、やはり一般的には各教典を典拠にしている各宗派が具体的な力を持っているようです。
これこそ”具体性の勝利”という現実です。ただし、旧来の宗教は日本ではすでに儀礼化や風習化しているので今後の人達にどれだけ訴求力があるかは疑問ですが、影響力がないとは到底言えません。 特に霊的な局面では、これは理論より実践みたいなところがあって、続いた祈りの力の場を無視したり否定はできないように思います。
話がややこしくなるのでこの辺で。