そうせい侯

2019年8月22日

菅首相の所信表明を聞いてほこほこと感じるに、この人はだれのために政治をやっているのだろうというよくある話や、やはり権力の蜜は甘いのだろう、でなければとっくにやめているよな、とか考えます。 軍隊の観閲式なんて、男に生まれたらぜひやってみたいですからね。 そして、この人の頭を押さえられる人はどこかにいるだろうかと言う疑問が。 天皇陛下の前で居眠りするし、精神的な何事かを感じることはないのか、しかし四国で四十八か所(回ったのかな全部?)を巡ったりして、小沢氏のように高野山に突然行って仏に援助を頼んだのか、てなことをつらつら感じます。
そして、その頭を押さえられるひとというか強力な影響を受けている人はもしかしたら、彼の出身地である山口県の昔は長州藩と呼ばれる場所で涵養された精神を持った人かなと思います。

わが県でもありますが、“保守王国”と呼ばれます。 いかし、かの共産党の宮本顕治氏が出た場所でもあります。 半島も近いので人的な交流も近しい可能性もあります。

さて、今年のテレビ東京の新春時代劇でもやっていたように、この長州藩は信義に厚く、約定は守るという家風であったそうです。 しかし、統一初代の毛利元就は、調略や謀略をことのほか用い、自分の版図を広げた世上言われております。 そして、その家が確立していくにつれ、その家風は上記の如く信頼されたよし。 信義の逆をさんざんに使って、その恐ろしさを身をもって分っているので、さらに逆をやって信義をきわめて重要視したのでしょうか。 そして時代が移り、江戸の太平時代。
”今年こそ徳川を討ちましょうぞ。” と家臣が具申。 そして、”いや、まだ早い”と毛利のお殿様が新春の恒例の口上というか、宣言をして一年が始まるということだった儀式が続いたそうです。

そして、動乱の幕末が始まり、長州の志士と呼ばれる武士などは暴れまくっていたのですが、藩の経営方針も基本は徳川憎しが長い事続いていたので、討幕じゃ!!と叫ぶわけですが、それを聞いた殿様は、”そうせい”、と。 また、いやいやここは自重が肝要でございます、と俗倫と呼ばれた派閥もいたそうで、こちらが藩を仕切るようになると、”そうせい”と殿様のお言葉をもらうわけです。

この話の事後談として、”暴れ者が多くて、そうせい、とでも言わないとワシの命がいくらあったも足りんかったわ。” との吐露がありますが、自己保身というよりもさらに一段己を高くして俯瞰した結果のようにも感じます。
要するに、藩論がまとまらない場合、正義や不正義と言ったものから、損得も当然あるし、相互に相反する理念の一方に決めらねない場合は、おれがいるから好きに己の理念を持って、ここに至れば命を惜しむな名をこそ惜しめ、の気持ちではないか、などど妄想しております。

戻れば、現代の政治に、毛利の殿様のような立場の人がいるか、それとも土佐の英断の山之内容堂のような人がいるのか、時代が違うのでなぞらえるのも意味がないかも知れませんが、自らの神性に問えない人は、相談する人、最終判断がいないことはとても哀しく残念な事です。 実は最終判断は国民のはずですが、正直こころもとないな。

現政権は本当に日本人なのかということも多いですが、”そうせい”とはもう言ってもらえないはずです。 方法論でなく行動原理や理念を再度見ておきたいと思います。