幸せは不幸せでできている

2019年8月22日

時々夢想するのですが、今の生活というか大きく言うと宇宙というかはいつまで続くのか、とか存在理由はなになのか、とかつい思ってしまいます。 ですからなかなか裕福にならないのでしょうか。 そしてその中で幸せになりたいが、どうも他を踏み台にしているのでは、とつい思ってしまいます。

さて、世の中は陰陽とかプラスとマイナスの性質のものでできているといわれます。 陰陽論は日本人なら直観的に分かりやすいですね。 幸せと不幸せが陰陽か・・・。

科学の世界はあるものが認識されると究極の世界でクオンタムジャンプという事が起きて、そのあるものたとえば正の性質をもったものと同時に負の性質をもったものが生まれるらしいですね。 そしてその存在の意味がはなはだ心もとなく、認識されないと「無い」らしいです。 そして無いというのもやや心もとなく、性質が波と光のそれぞれとまた同時に二つを持っているらしいです。 このあたりは古今東西の文献や書物などにそのすべてではないが部分部分が記されているようです。
これは言うならば結局のところ次のような命題につながるのではないかと言うことです。 つまり、自己とはなにか、心とは何か、物質(身体)とはなにか、究極の存在とは何か、始まりと終わりとその繰り返し(輪廻)の意味または無始無終の意味を、これらの覗こうとするものにあるいは激しく拒絶し、またはかすったものには圧倒的な力で回答を迫れらるかもしれません。 だれに? いわゆる本来の自分とあなたの意識の外に立つであろう神にです。 でも最近わかったかなと思うのは、自分自身と魂は別物であり、魂も進化している、と鬼が云っています?? (魂を分解) 鬼とはあなた自身(本当の自分)にまつろわぬものでしょうか。
そして、魂の進化と意識の進化は密接にあるが、別物でしょう。

さてこのあたりはまだまとまりきらないですが、今年のなってつらつら思うのは、感覚的ですが、幸せとはなにでできているのか、もしかしたら幸せの反物質でできているのではないかと言うことです。

絶対的な幸せという事はおいておくと、幸せはひどく個々人で違っているようであり勘違いもあるようです。 喰えれば幸せ、異性がいれば幸せ、お金があれば幸せ、地位があれば幸せ、愛し合いされれば幸せ、ひとを奴隷のようにつかれば・・・等々で、この世は幸せになるために生まれてきたのよ、とよく言われます。 でもちょっと、待てよ、と。
幸せというといまならどうしても物質的な回答がまずきます。 でも例えば仕事があって幸せ、私は努力したからとよく言います。 それはそうでしょうが、良き縁に恵まれたとか偶然(は絶対にある)の産物かもしれません。 でも例えば仕事に就けなかった人も多々いるわけで、今の時代なら仕事に就けないのはついには死にいたるので、社会的にもセーフティネットとか整備しようとします。 しかしセーフティネットの意味も使い方も分からない人もいるでしょうね。 馬鹿だからでは気の毒。自分も同じようなもの。
ぶつぶつ言っていますが、要するに、あなたのまたは私の幸せは他人の不幸せの結果とかまたそれからできているのではないか、と思うことです。

経済活動は本音部分で人助けではなく自分助けで金儲けが一番正直なところでしょう。
運が悪いやつ、頭が悪いやつ、頭はいいのに要領が悪いやつ、悪霊に人気があって常にじゃまされているやつ、性格がいいのでつい苦労をしょってしまうやつ、いい人過ぎてまじめすぎて自殺してしまうやつ等々いろんな人に会ったり話したりしますが、幸せな人も不幸せな人も全然未完成ですよね。 なんで差がついたのでしょう。 努力?人格?性格?霊性?能力? この中で能力が一番嫌ですね。 能力なんてよくよくみるとさほど変わりません。 また努力も努力できる環境にあった、それこそ幸せだったのかも。

ではなんだ、ですが、そもそも幸せを制限のある物質世界に求めると必ず他と衝突します。 これがあなたの幸せとは他の肉を食らい血をすすった結果なのだ、と言う可能性があるはずです。
とはいえ物事そんなに単純ではなくて、誰もやりたくないが誰かがやらなくてはならない仕事、をやっていることもありますよね。

この寒空の下では野宿で死んでいる人がたくさんいるはずです。 それは努力しなかった、運が悪かったからだ、ではかわいそう過ぎます。 自分が暖房の効いた部屋で暖衣で寝ているのは申し訳なくさえも思います。 しかし実際何をすればよいのか、自宅に招く? は、現実的ではないですね。 単純に支援を受けると怒る人もいますから。 難しいところです。

昔ならお坊さんなんかが、旅にでて修行をされますが、一夜の宿をもとめ、あるいは喜んで迎えられ、またはいやいや、あるいは拒絶で野宿・・・といろいろありますが、それでじつはお坊さんもその家々の方々もいろいろ体験と決断と行動とその結果の考察、をされていたんでしょうね。

ながなが書きましたが、自分の幸せは他人の不幸せでできている、はたぶんある意味は正しいのかもしれませんがそれでは悲しすぎます。これが陰陽論の陥穽であります。 この仕組みを壊すのが智慧でありましょうか。
よって、考えると大きな意味での食物連鎖に実は人間も含まれており、実は自然が禁止している、”共食い”、をやっているのでしょうね。 そしてこの状況を脱するのが本当の経済とか社会制度あるいは健全な宗教、信仰というものかもしれません。

そして本当の幸せとは、何でしょうかね。 複雑なものかもしれないし、単純かも知れない。 そして自分のいがいのすべて(敵と思っているものからさえも)から愛されている、というものかな、と。 照れながら考えるわけです。 でもその前に胃袋は膨らませないと、と現実に引き戻される。また考えてしまうのです。

この世の不幸せが天国にいたる門にいたる条件とか、あの世に行くと貧乏人が逆にひっくりかえるのじゃとか神示と言われるものに言われていますが、考えると本当にそうかも知れません。

明日もまた現実に直面するので、実は世界征服を狙っているのだ、自分以外はわが奴隷じゃとか、弱い自分の心を叱咤激励するのか。

まとまりきれない日記でした。