無限の中にある有限の意味

2019年8月22日

宇宙は有限か無限か、時間は有限か無限か・・・ だれでも悩む問題で、誰も明確な答えが出せない問題です。

仏教の経典では時間が如何に長いかという表現に心を砕いており、計算するのも面倒になるようなことを言います。 なんにしてもとにかく長いが、永遠とは言えない。 ここがポイント

さて、輪廻転生があるとかないとか言いますが、魂が肉体を変えつつこの世とあの世を行ったりきたりしていると思います。 あの世でもあの世の肉体を持っている。 死んだら意識と魂の境涯に沿った霊層にて霊的な身体を持つのでしょう。 それはともかく、ではいつからいったりきたりしているのか、回数は覚えているとか覚えていないとかあります。
では”最初のこの世への誕生”の前はどこで何をしていたのか。 そしてこの世の”上がり”があるといわれていますが、(本当かな)、ではその上がりのあとはどうなるのか。
永遠の昔から居て、永遠の未来に向かうとなるとさあ、”今”はどう考えれば良いのでしょう。 ”今”とは何でしょう。 永遠の旅人とか言いますが、そうとしか思えません。 時間の観念はある意味いい加減で心、意識によって長さが違います。 面白いですね。
でももっと考えると、永遠の過去に居た、というものどうもピンときません。 またなんにせよ永遠の未来って、今歩いている道がずっと続くということで一体何なんだ。 永遠の過去にいたという事は、すでに我々は永遠の存在ということになります。 考えていくとこれ以上理解できないのに今ここにある不思議またはこれ以上の恐怖はありません。考えすぎると発狂しそうです。
なお、インドの古い考えでは、成劫、住劫、壊劫、空劫の期を”永遠”に繰り返すとか。 世界のある所で黄金の板が4本の棒を行ったりきたり入れ替わっているらしいです。それが終わるのに長い長い時間がかかる。 生まれ育ち、老いて、ついには死ぬ、という人生の各段階を言っているようでもあります。

さて、ならば距離というか空間です。 宇宙の果てはあるように言われていますが、ならばその果ての外はどうなるのか。 その前に五本指が立っているのか。 今の物理学では147億光年と言うことらしいです。いずれにせよその外はどうなっているか?

空間も、ああ無限の宇宙だな。 ならばですね、距離も時間も無限の交差点にいるのが中今(なかいま)にある自分(らしきもの)というのが立脚点となります。 そして無限と永遠が構成しているのが宇宙空間であります。永遠だから無限だからよくよく考えたら何もないのであります。

そうなると、有限の意味が、考えたら、分かりませんね。 だから有限の距離、長さ並びに有限の時間。 いくらどう切り出そうが、区分しようが、意志をもったもののみにできるであろう、”有限”の意味は深い。 なぜ、人間の身体はこの大きさなのか、一日の長さは24時間というさらに仮定した長さに依存しているのか、考えたらどうにでも説明ができます。 しかし、面白い事に人間の身体がならば30メートルくらいでもよいだはないか、と思うのですが、30メートルもなると長さと重力の関係より、”立てない”らしいです。 身長に適した骨、筋肉が持たないとか。
よって、ある意味絶望的、または希望に満ち満ちた無限の世界のなかで、絶妙なる有限ができており、空と呼べる時間空間場よりこんどは自己が出でて、わざと”有限”なるものを作り、永遠と無限のさらなり完成度を求めている意志があると言えそうです。

だから限られている人生の時間というのは本来無限永遠なのに極めて特殊な状態である、といえるのではないか、と気づいた次第。 これで自分なりにこの面倒な問いにひと段落をつけられるか。

これが正しいのかどうか、神と交信できるとおっしゃっている方々にお聞きいただきたいです。 まあ自分で聞くとなかなか分からないのと、主観がはいりますので間違いをするかもなので。

実は悟りは悟った人しか分からないのが理屈だ。 よって、こんな形而上学的なことは分かるようになったら分かるんでしょう。

こんな事ばかり考えている春まだ遠い冬の日か。