法身、報身、応身

2019年8月22日

スピっぽいことを考えているとやはり原点回帰でホトケサマの教えを再度再度見直してみて、さらに他の方と意見交換したりしているとこの三身での説明も簡単ではないようです。そこで復習をしてみようかな、と。なお、素人在家ですので当然ですが、理解が真実とずれている可能性もあります。

なお、私の前世はいろいろな人から僧侶であるといわれて、前世なんか知るか、という気持ちの一方やはりそうかなあ、と思うことしばしばです。
ちなみに、天台密教の僧侶らしいです。 密教と言うと弘法大師空海が有名ですが、もう一つの密教である台密の方だったのか、と考えるところ多しです。 ある修験者と過去のお約束か何かがあるそうな。 その人はだれだかはもう分かっています。 不思議は人間の縁がつなぐようです。

さて、もどると;

人は精神と肉体が個々に且両方が複雑に絡んでおるようです。 そして、人間の精神の不思議は、生存本能により、まず疑うという本能、これは物事を悲観的に見るということですが、その傾向があるようです。
それから全てがスタート。 だから恐怖という感情が生まれる。しかし本体そのものは霊性清浄にして円満だから現象との素直な比較で、ズレを感じて自らに罰を与えます。 自己嫌悪がそのスタート。行きつく先は原罪というある意味落ち着いた・開き直った思想へ到着。
このような本来は円満でバランスが取れているはずが、それこそ現象(色即是空の色)において”均一性の破れ”が発生しバランスを崩す。 だからそのバランスを戻すためにいろいろな思想や哲学、宗教があるように思います。 ただし、ただバランスを戻すだけでは何のために”破れたか”が分らないので、”進化・向上”という目的があるように思います。

前段をこのようにおいて準備が済みました。
さて、この世の人や諸々とは”苦(または課題)”であり、それは望ましくないのでそこから逃げたりまたは解決したりし、その方法は、神の救済を希望する、神と通ずる、無視する・気にしない、すべては運命と諦める、悟りを開く、超人になるとかいろいろです。 それらのなかで、神と通じるという方法にもいろいろで、言葉で祈る、意識で祈る、体で祈る、怪しげな儀式を行う、なんとか秘術…とまたいろいろ。

ところで祈るのならば最高の神に祈りたい(ほかの問題もでるのは置いておいて)と人間はやはり思う(特に宗教的な人)ようなので、”神を希求”するということになります。
では自分を顧みてそれほどの神と通じるかと言うと、素直にそんな資格は無いという人もいるだろうし、ぜひやりたいという人もいるでしょう。 前者が浄土的で後者が禅的というところでしょうか。

そこで三身がやっと出ます。
いわゆる普通の人(凡夫)が最高神になんらか通じたい時に、では超人を使ってその思いを届けていだだけないかという発想です。 超人は、”人”と言ってますが、”賢”と言った方がよく、それならば神とか仏とも賢となり得るでしょう。

簡単に言うと、法身はこの宇宙の大生命とか根源たる法則であり”実相”、無限に荘厳する御身です。 報身は、その法身を希求し近づく理想的な大修行の実行者であり、大救済者でもあり、ある意味”型”であり理念であります。応身とは法身を希求する報身を発見し、実際のこの報身をお手本として自らも実相を極めんとする今世に肉体をもった身であります。 このためには宇宙の本質を発見し、すべての現象は心次第であり、反省と自覚に基づく浄化を行い、自利他利の愛を行するという実行をすると言うことになります。
応身はこのような法身、報身をわれわれに肉体を持って説いた方ですので、どの身が一番偉いとか偉くないとかの比較は意味がないです。

法身として(ビ)ルシャナ仏、大日如来、仏母。 報身として阿弥陀如来など。 応身としては釈迦如来や”古の仙道をたどる完成した修行者”達。
これがひとつの考え方です。

ちなみに、仏教での信仰形式と宗派という観点から見ると、人の情を強く出しているが他力信仰の浄土宗であり、論理的な部分を強く信頼しているのが自力(信仰)の禅宗であると言えます。 一方は報身を見、一方は応身を見るというのが比較対象になっているようです。

ただし、最高神に至るといえども、要するに近づけば近づくほど遠いのが分かるというのが古来からの”実感”で、絶対自力から絶対他力という意識変換がおこるのというも面白いものです。
以上のように考えると、円教(法華)、禅、密、戒をまとめようとした天台宗の狙いもほんの少しだけ分かるようです。

これは実感があった人の解く内容を、端席に座る不肖の弟子のたわごとかも知れないのでご注意ください。

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