中世の悪夢

2019年8月22日

知り合いのナイジェリアの話で日々強烈な混乱状況を教えていただくと、人間ってなんだろうと思います。 今更ながら。

そして、いろいろ調べてみようかと思って調べていると、こんな記事を発見。 まさしく中世は殺戮の時代だったのか。 20世紀も酷いがこれほどの狂気は寡聞にして知らず、です。

http://members.jcom.home.ne.jp/0350371001/works/works_4_j.html

ロシアのルパンではなくて、そして3世でもなくて、イワン4世。 雷帝と呼ばれていたそうな。 これだけきくと獰猛なりと言われるような戦場働きで国の版図を広げた、と勝手に思いそうですが、実は違う。 とにかく、気に入らないと殺す。 ちらと見た、殺す。 顔が気に入らない。殺す。 陰口を言った(ようだ)。殺す。 殺すのも剣でズブリならまだしもといいたいような狂気の儀式でもあらんか。 詳細は上の記事を読んでもらいたいのですが、問題は、このような凄惨な状況をみて大いに安堵して喜んだ。あるいは生きがいを感じる、という心理状態。 小は、羊たちの沈黙かな。
良く読むと小さな猜疑心が際限もなく大きくなって、歯止めが利かなくなって、殺、が自己本体の真実となってしまった。 真実または本当の自分だからごまかせない、つまりだから殺すのだ、ということか。
しかし、人間はどれだけ残酷になれるのかということですね。
殺または死の場面が自分のエクスタシーになる、なんて、チベット密教もこのような事を実は感じさせる部分がありますが、見事に昇華しているような感じです。私見ですが。 さすが瞑想とヨーガが根底だからレベルが違うか。

イワン4世も殺が生きがいになったのに、礼拝も頻繁に通うようになったというのが、興味深いです。日本でも信長が自分の城の壁画に神仏を書き、その上の階に自らを座らせたというのをちょっと思い出しました。 精神的な自己肥大もいいところでしょう。

性(=生つまり殺。イワン4世の場合)と聖は二律背反的に思われるから、血みどろの手を洗うか洗わぬか分かねど、その手を礼拝堂で神に合わせる、一見矛盾しているようで彼の中では合一しているのですね。 この点は興味深いです。 人間の一部分をくっきりとみているようで。

しかし、やはり最後はあっけなく死んでいます。 心の深い深いところにあるもっと本当の自分が表面(顕在意識)で大暴れしている”自分”をさすがにほっておけず、というように勝手に考えてしまいました。

愛を説く文明地域で、愛とは逆のこのような殺戮があったのは歴史の皮肉といえましょうか。 また人間はこのような部分がだれもある、ということを認めないといけないのかも知れません。