真理の役どころ 2008年02月13日

2019年8月22日

まり、じゃ無くて真理の話。 真理はこれだというと真理はするりと手から離れる、とよく言われたりします。 またそうだろうと思います。
いまの世の中は真理、真理ということを必要としないように皆でよってタカって作り上げましたから、時々真理とか正義とか真実とかいうと、まあ、肩に力がはいってはるわ~とか言われます。
でも、真理も無責任であって、何処までも真理は真理という人間様が認識しえた内容は、そりゃちゃいまんねん、と真理の嘆きが聞こえます。
ある一定しか真理ではないのでしょう。 絶対正しいとかいう論理は、その論理自身が限界を持っていると素直に認めていますし、それに大いに肯定するものであります。 死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽しという話も昔の哲人が言った内容です。 (ちょっと使う場面が違うかも…) 要するにちょっと見方を変えればありがたがっていたのになんじゃこりゃ! 状態。

普通の生活でニュートンとかユーグリッドの法則世界で考えればほぼ100%Okだったりしますが、それいがいの世界が広大無辺に広がっているというのは、もうすでにかなり前から言われています。 そして、携帯電話の中とかにその技術はこっそり入っていたりします。 どういうことかというと、理屈はわからんが(真理は分からんが)動くからまた結果が出るからいいじゃありませんか、というかなりいい加減な態度。このような”なにか分からないけど”で適当に暮らしているのが我々。 そりゃそうです、だから生活とかの"型"があります。 これは絶望的な恐怖から逃れるための術であり、宇宙の一点(地球)に放り出されたヒトとしての心理的な破滅を起こさないためでも有るでしょう。
大体、なぜ地球と呼ばれる星に、突き詰めれば電気的な均衡の集まりである我々が、今こうしているのか?といわれて万人が納得する応えをした人を私は知らない。 つまり納得できないわけですし、納得する必要がないのかも知れない。 秘すれば花だ。分からなくて結構。(論理の限界ね) 思想は大いなる嘘、自己欺瞞、他人欺瞞、酔っているだけであって、”真理”の前には顔を赤らめるでしょう。 またその真理もよい加減のところでお役御免を申し出るでしょう。 去年のカレンダーと言うことです。去年は本当に正しかった。しかし今年は使い難い。

神も仏もカルパが尽きればその先はそれこそ神のも仏のみしりたもう世界。
人間ではその心力の及ぶところにあらず。 ありゃ、絶対だとおもっていた御存在が意外と…と失礼千番なことをも思う…

さて、そうは言っても真理は何処にあるのでしょう。 私は自然の理法とか摂理とかいった方がピンと来るんですが、そこにもかしこにも偏在しているのだが、今は人類第5世代か忘れましたが、意外と、取ったドーというヒトはあまりいなさそう。皆で探しましょう。 ちなみに、永遠の前面の彼方に飛んでいくと宇宙の果てに見えるのは自分の背中だとか…
真理は真理としてはなく、そこにあること自体で真理としての内容を満たしている、I am myself と言う感じですかね。

オジサンの日々行う妄想(瞑想ともいう)でした。

でもそんなだからやりがいのある私のこの人生、貴方の人生。