落雷と追善供養
いろんな夢がありまして、夢と言っても寝ているときに見る方のことですが、最近はBloody Babyと呼んだ夢とかありますが、ついに落雷の夢を見ました。
夢、と言っても夢か現か分からないような中間世のようなものでしたが、その音や衝撃は猛烈。
まさしく、ごろごろ、どかーんと部屋の中に落雷の衝撃。 さすがに驚きました。 すぐそこに落ちた、というものでしたので。
それで早速夢辞典なんぞで調べてみると、病人が出る、との事。 トラックにはねられるは、風邪は長引いて胸というか肺が痛いわ、でしょげていましたが、自分ではなく母親が入院してしましました。
良く当たること・・・ しかし、明日で退院ですのでそれはそれでまあ大丈夫なんでしょう。
夏はいろんなことが昔からずっと続けておきます。 身体は重いことも多いし、やっぱり地獄の蓋もあくのかな、と思ったりします。 しかし一回りしてのなんだか厄落としも感じているし、やはり変わっていくんでしょう。
そして、お盆なので思い出しましたが、追善供養。
”追善供養”というとどんな感じでしょうか? お供え物を仏壇に差し上げ、なれない経のひとつでも読むなど以外にも意味があります。 善を追うとは、死んだ人がこの世でできないことを、肉体を子孫や縁者が代わっておこなう肉体(身体行と心行もそうです。)行の事です。善行を死んだ人に代わって行うもの。
確かに自分で行っているのですが、これは例えば死んだだれだれさんになり替わってとか、先祖になり替わってとかいうものです。 霊場巡りとか昔の人はよくやったようですね。そんな風習というかやりかたにやや似ている。と言ってもそんな霊的な事ばかりでなく、一般的な“良い事”をすれば良いわけです。
何が善か、とかいうといろいろややこしいが、自分が喜ぶこと、他人が喜ぶこと、社会が喜ぶことということでしょう。 まあ、やって気持ちが良いことでしょうかね。
但し、あまりに霊感がするどいとか、磁石みたいになっている人は観想とか瞑想とかの成り替わり行はするべきではなくて、先祖に成り替わって公共の場所を掃除する、とかが良いんでしょう。
こんな風に、因果の法は歴然としてある状態下において、実は他人に成り替わって善業を成すことができるというのも因果の法則の応用版と言えるでしょう。 キーワードは”意志と宣言”ですから。 これはある意味先祖の行動のたらざるを補い、過ぎたるを消し、また思いを遂げることにもなります。但し大きすぎる任務はできないのでほどほどにしとくのが肝要でしょうね。
お盆にそんなことを思い出しました。 で、お前はどうなんだ、と聞かれますが、まあほどほどで。
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