応用、基本そして本質ならびに守破離

2019年8月22日

普段いろいろ現世的な事が今は多い(ほとんど)ですが、懲りずに形而上学的なこととかを思索したり哲学したりしています。

まだまだ論文は続くのですが、中途のまとめとしてこのような事に思い至りました。

死とは何か、生とは何か、実存とは永遠とは無限とは、宇宙とは・・・とついつい癖で考えてしまし、あまり考えすぎるとこの世とかこの世の活動がついにはむなしくなります。 特に経済活動なんて禽獣の世界と何ら変わりないのが今の仕組みですので、よくもこれほど下劣にしたものだと思わなくもありません。

しかし、それはそれで現実の一部門であり、たとえば恋愛ややりがいのある事業(営利事業でないことが多い)に打ち込んだり、美しい音楽や絵画、また風景や四季の移ろいを深く感じまた、家族や夫婦のお互いを本当に大切にしあう讃えあうとかの嘘のない愛情、または美の創造なんてのは本当に魂が震えるでしょう。
つまり不都合が多いと言っても捨てられないこともあり、この世で生きるしかないのであります。

そこでは問題が多く発生して、それが貴女を貴方を成長させるとか慰め言われても、すんなり叩頭するかどうかは不明です。 しかし逃げても逃げても追ってくるのでいつかは解決する必要があり、最終的な”自分が本当の嘘のない自分を発見しまたそこに合一する”という人生目標のためには、どうしたらよいかです。
宇宙の原理原則もこの世の原則も歴然としてあり、この上で我々は生活しております。 そしてそれらの原理原則を意識しないのですが、やっている事(日々の生活)は応用(問題)の連続です。 答えや選択する決断を常に迫られるのが人生でしょう。 (のんべんだらりという人生もありますよ、それはまた)
つまり、日常生活と言う応用問題を解くためには基本がわかっていなければ、失敗したり悔しい思いをしたり、果ては期せずして死ぬ事もあるでしょう。 だから一般の勉強と同じように基本をしっかり勉強することが必要です。 でもそれだけでは分からないことが多々あります。 なぜでしょう。 と言うのはその基本は”仮想や仮定”でされている事があることは論理学とか科学では実は”前提”という”嘘”であります。 ”思想”と言ってもよいものかもしれません。 経済とか政治もそのはずです。 そこで、基本よりも大切なのはなにか? それは物事の”本質”を如何に理解、体得しているかであります。
坂本竜馬がはやっていますが、昔何度も読み直した本の一説に、竜馬は法律の講義を受けているときに、翻訳が間違っていると講師に指摘したと。 それは、オランダ語で書いてあり文字は読めなくも、その”本質”を理解していたからこそ言えた、とのこと。大いに同感であります。

そこで、本質のつかみ方とかなかなか厄介ですが、やはりこれは基礎を勉強して、人類が考えた”型”をしっかりとたたきこみ(積み込み)、自分のものにしてしまいます。 すると自分にぴったりの方法や”型”がそのうちに分かるようになり、一般的ないわば最大公約数的なものを破る事になります。 この意味ではいきなり破るのはルール違反や無礼者以外の何物でもなく。 勘違い公立学校の生徒みたいなものかな。
それはさておき、破った後では、実は一般的な型も自分の型も、その両方の優劣を論じるのは意味がないことが分かり、その束縛から自由になり、つまりこだわりから”離”するのであります。
そしてこのような過程において、自己の中心”胆”がしっかりと出来て錬成していくのであります。 ここで自由になるのであります。 真理は汝を自由ならしめん、とはこの意味でしょう。

このようなまとめを現在しております。 いい感じかな。