偶像崇拝万歳

2019年8月22日

私の理解と記憶ですので間違いがあるかもしれませんが、 (最近の一連のものは、ほとんど記憶のままに書いておりますので・・・)

宗教と言うのは多分に西洋の思想分析的な発想であり、日本でもまたインドでもその区分に合致していないような感じです。 他の例では、確か神学部が無いとUniversityと認められないとか認められるとか。

だから○○教とか言っても、結局のところ、宇宙・自然の摂理を無機的にみるかまたは人格的にみるかであり、これが宗教となると、祈りの対象とか教典とか設備とかの規則があるわけですが、これを科学的あるいは論理的に考えられないかと言うようになかなか考えません。
うちの神様はどうだとか、うちの御本尊はなんだとか、うちは無神論と言う神様だとか、いろいろあり、あるいは偶像崇拝だとかなんだとか言っております。 ちなみに、偶像崇拝の人が何も祈りの対象が無いような高度な宗教または教義体系に容易になじめるかについては甚だ疑問。 我々はしないですよ、と言う方たちも、宇宙からの飛来した石とか十字架とか拝んでいます。 これを偶像と言わずなんと言うのでしょうねえ。

それはさておき、偶像崇拝を非難するとき、時に、神の名前さえも呼ぶなとか、母音を発音するなとか(これはこじつけだったが)となると結局、さらなぬ神に祟りなしが正解!と快哉を叫ぶのであります。 (または実際は拝んでいるじゃあないかとなる。)
崇高なる修行者は心にともる真理の光がどうも自らの神であり、それこそ偶像はいらないのですが、しかし、大部分の貴方も私もそう簡単ではないもようです。(ところで、開祖をいつまで裸で磔にしているのだ、と思う宗教があります。 気の毒で仕方ないのです。 )

これは、例えば仏像が相変わらずブームですが、これらはある人が感得したお姿であります。 真理は例えば、言葉で、例えば色で、気で、形で、光、熱で・・・とあらゆる方法で認識上に乗ってきていただけますが、受信感度が低いとなかなか理解できないのであります。
で、戻ると、仏像の姿はいわば、そのような世界への道しるべであり、形で持って形を呼ぶという法則であります。 場の形成ですね。 シェルドレイクも言っているような内容でしょうか。
またはイメージ教育でもあります。  さらに場の形成にも関係しますが、念の凝集が同じ像をずっと祈っていると起こり、その念に応じてまるで生き物のように活動をはじめる、という説は説得力があるように思います。 古くてずっと続いている神社仏閣聖地などなどには独特のものを感じる人が多いですし、個性があるのが面白い。

このように、仏像の場合は、個人の崇拝対象仏であったり、民衆に仏の姿を示して本来の道に導かんとか、国家や社会の安寧を祈る、言う苦肉の策でもあったろうなと思うわけです。 これを持って白昼堂々大矛盾を敢えてしているのでしょう。
貨幣と同じように、実体価値と名目価値が大きくはなれておりますし。

それはさておき、例えば仏像ならば、柔和な如来から、優しい菩薩、怖い明王などなど個性多岐にわたります。 属性というとパソコンのプライオリティとかみたいで恐縮ですが、個々の働きや祈る人が望むものでやや変更もあるようです。
これらがさて偶像かというと、間違いなく偶像であります。 でもその役割を分からないで意義を唱える人に聞いて、神はついに神と言う言葉も使うにあらず、ネイティネイティ(非想非非想処)と言え、さらに表現不可であるならば、御説に従いましょう。 ただし行動力が落ちるのです。
よって、正しき聖なる像は大方便でありますが、迷いやすい我々の指針であります。 ただし、基本は偶像であることを忘れてはいけません。 この辺りの折り合いがなかなか難しいね。 (だから一休さんとか平気で火にもやしたりするのだなあ。)

そして、ひとつ注意あり。 仏像やお墓関係の作品の作者がいうには、ここと言う時になんだか変なものがスイと入る時があるとか。 なんでも拝んでもらいたいと言う事でした。 この辺りはまた。 だから開眼という儀式は意味があるみたいです。