般若心・経と自性 つまり女性原理
般若心経なる世間に流布しているお経は、その解説本はいまだに数多く出ております。
大体、空の大事、とらわれない事とついにはとらわれない事にもとらわれないとなんだか雲にまかれるような解説が大部分みたいです。
たしか小学生か中学生かから数十年1日もかかさず唱えたものだから、少し霊的な力がでたようです。 歳を重ねると中身がしりたくなりますので調べていたのですが、無だ、空だという論説の本がさらに昔は多かったのでそのように考えておりましたが、終には悟りも無い涅槃も無いにいたっては、やはりなんだか違うなとかどんどん疑問が深まっておりました、
深く考えると、否定の否定のそのまた否定とかいう感じで、正直スリランカのお坊さんがいっているように支離滅裂なのではないかと思い始めましたが、唱えないと調子が悪いので流れで唱えていたのでした。
心なのだ
じつは検討や勉強をつづけていて分かったのは、般若心経というのか般若心・経と読むかでぜんぜん意味合いが違い、中身も解釈が違ってきます。
細かな点はまた今度ですが、般若心・経がどうも正解のようです。 それをまず言ったのは空海さんです。こんな有名な人がいっているのにずっと間違いが大多数であったと言うことです。
つまり、心を精髄(般若経の精髄)と読むとおかしくなって、原典では心はフリダヤ、つまり真言、マントラです。
このお話で一番大切なのは真言ですよ、それは・・・と言うわけです。
では真言はなにを目指していたかというと、私自身(自性)に合一するための真言であるということです。 自性と合一とは深い悟りを得るためです。悟りには浅い深いがあります。そして自性と合一してなにをしたいのかというと、魂のまた霊位の向上を続け、ついには般若波羅蜜多に出会うためでしょう。(ここは自説)
般若波羅蜜多に会うため、って何でしょうかとなりますが、これはつまり般若波羅蜜多とは仏の母なんですね、根本の絶対抱擁をしてくれる聖にして聖、愛にして愛そのもののまごうこと無き御存在に合間見えるためなんでしょう。このために真言を唱え悟りを得て涅槃に至って自由自在の境地(煩悩が消えた境地ではない)に至り、終には究極の母親であり根本の女性原理に出会うためでしょう。
12月8日ですのでちょっと書いてみました。
そういえば前に行った運慶展で無着様と世親様に、自性の存在はどう思われますかとお聞きしたんですが、クスリなりニヤッという感じのお答えでした。
それと私の名前に”心”の字が入っていたのを今さらながら発見したのでした。(遅いよな) マントラ君とか真言君とでもよんでもらう?
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