お筆先(かな) 2007年12月14日

2019年8月22日

今日ちょっと不思議なことがありました。
ある場所である女性の方の写真をとろうとして、ファインダーをのぞくとその人の胸のあたりに丸く白っぽいような光がまぶしく輝きだしました。あれ、アクセサリーにでも光が反射しているのかなと思っていると、ぐるぐる回っています。おお、とおもいシャッターを切るとその光も少しだけ写っていました。写真を撮られた方もよろこでいましたが、これは、神道でいう直霊のあたりの光かいなとおもっておりました。そして、家に帰ってパソコンの前に坐っていると、時々あるのですが、お筆先みたいなことが起こります。意識は自分のものであり、なんの道具も使いませんが、文字がすらすらでます。
ということで、かたかたと打ったのが次の文章です。

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幸せであればそれで良いのか?

年末はクリスマスソングとか楽しげな音や歓声が聞こえやすい時期です。しかし現実は厳しい。 今年貧乏だった人、自殺し損ねた人、殺し損ねてホットしている人、苛められて心底憎んで憎んで鬼のようになった人、隣の人のパンを盗んで自分の子に食べさせた人、”仕事”という題目でやりたくも無い偽装とか嘘とか騙しとかして心のもっていき場所が無い人、健康に絶対に悪いと分かっていたけどそんな料理を出した人、効かない薬どころかどちらかと言えば毒だが、弱いからといって言い訳して処方した医者・・・ 不幸な人はいろいろです。 また、寒いのに一円も持っていない人、道端に落ちている食べかけの弁当をあさっていて食欲は満たしたが食中毒で死んだ人、まだまだいるぞ、望まれない子供と言って堕胎した人、させた人、その医者、おお、罪人よのー、
幾つになっても異性の肌が忘れられない、ジャンキーな人達、お恥ずかしい 問題解決には殺すしかないという短絡と言うか悪霊が取り付いたのに精神鑑定でお茶を濁す人、いっぱい他にもいる。

世の中いろいろ、人生いろいろって本当だ。 だから、言いたい。 人は幸せに成るために生れてきたという。でも、上の状況を見てください。全然幸せじゃないですか。 だから目指すところが違うんじゃないですか。私には関係ない? そんなことはない。殺したくないのが人情ですけれど、あなたのやった営業努力で競争相手の会社は倒産して、その従業員は路頭に迷っているかもしれない。 それでも何の痛みの感じませんか。 美味しいお菓子を作っています。 でもそれで糖尿病になってしまうかもしれない。自己責任?その言葉はそのまま貴方に返そう。そんな無責任な事をいうもんじゃない。

私は株式の売買で暮らしています。肉体労働なんか… 場末の博打場と証券市場はとても似ています。 ギャンブルでまけて昼間から酒飲んでクダ巻いているおっさんと、端末の前で頭を抱えているが、政府のせいだとか、中央銀行の金利がどうだこうだと理屈こねている綺麗な服着ている人。 この場合、おっさんの勝ち。なぜか、おっさんは、自分の予想がはずれたのは自分のせいだと思っているからです。

幸せであれば、本当に満足ですか? 皆さんは愛、とよく言います。でも空虚です。人類一人残らず救い上げてこその愛でしょう。横で泣かれるとつらいです。痛いと聞くとなんとかしてあげたいと思います。お腹がすいたと聞けば食べ物を施したいと思います。 でも殆どの人が無関心ですよね。
何故でしょう?求めているのは愛に似た生存衝動でしょう。自分だけ良ければよい、つまり自己愛を求めているだけ。他の人が不幸なのは、あいつは頭が悪いから、美人じゃないから、性格が悪いから、運命が弱いから、学校の成績が悪いから…などなど言い訳が山ほどある。
愛を語るのはやめよう。幸せになりたいなんて止めよう。 その日一日を精一杯、人類どころか万物同胞と思って行動する、生活する。そうすると嘘偽りの無い本当の愛が心からでる。
守護霊などという。私の守護霊様お助けください。 バカをいうな。本当に高貴な霊が降りてきたらこう言え。
『お出ましいただき真に有難うございます。おこころだけで十分です。私より困っている人がたくさんいます。そう知り合いの〇〇さんは、これこれでとても困っています。是非お力になってください。私は大丈夫です。』そうでしょう。何故幸せになりたいのですか。貴方にその価値はありますか。卑屈になる必要はさらさら無いが、反省すべきです。
だから幸せを祈るのならば、まず家族、知人、友人、地域のひと、國のひと、…と広げて祈れ。 その人たちこそ幸せになって欲しいと祈れ。自分のために祈るな。 これこそが祈りの輪である。光あれ、とはこのことを言う。
ついでに言うと、先ほどの高級霊は、貴方の志に感動して、より強い守護を与えます。また仲間の高級霊にますますその人の守護を要請します。またその人に祈られたその友人はきっと幸せになります。でもそれを間違っても望んではいけない。即刻退場されます。つまり高級霊の愛は受けきれないほど大きいモノである。またそうだからこそ高級霊になれたのである。よって、受ける人の資格とか価値が気になる。本物ならば、”おお、神よ。貴方の恩寵は受けきれない”という叫びがないとちょっと怪しい。 手練手管なんて要らない。

幸せと愛を求めない正しい姿こそが、人の正しい道である。そこが救いと悟りとに向かう確固とした道である。
私は気付けば幸せであり愛をたくさん受けた、という感受性のつよい素直な心こそ目指すものに他ならない。
地球を救え、ではなく、地球に感謝せよである。感謝するものに対して粗略には扱わない。人よ、まだ間に合う。
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ちょっと厳しいですが、胸の光と関係しているような気がしてしかたありません。 自分がつむぎだしたのかもしれませんが、まあ反省してみようかなと。

ちょっと不思議続きでおだした次第。