慈悲は遠いか

2019年8月22日

先日、マイミクさんからお知らせいただいたチベットの現状に関する映画を見てきました。 多くの方が見えておられましたが、どの方も真剣に或いは所々でチベットの人々への迫害に涙を流し感情の高ぶりがありました。
私も同じ。文字で読んでいるのと映像では衝撃が違います。 そうは言っても映像もやや抑えぎみかもしれず、実際はもっと酷いことがあるのだろうとさまざまなソースに接する都度に思います。
この原因はなにかと言う事を考えるに、人間は暴走するからです、と思わざるを得ません。 それも条件さえ整えば私もあなたも同じということです。 日本での普通の感覚では、銃を僧侶には向け難いですが、徹底的な思想教育を受ければ何という事もなく、或いは引き鉄をひけるかも知れません。
今のチベットへの弾圧、人権蹂躙に対して、チベット側の無抵抗主義、慈悲で包こむことは本当に出来るのかとせっかちな私はいぶかしんでしまいます。 その疑問は今のままでは断固排除されそうですが、一線を超えてしまうことも無いとは言えません。
共産主義は宗教はアヘンだという基本的な思想ですが、それはある意味当っていますが、物質主義だってアヘンかヘロインかなにかでしょう、ある一面は。物には二面性があるので、一面だけ見て断ずるのは性急(或いは卑怯)な論理展開であり、そのあとに持ってくるであろう、”本当の宗教”またはそれに代わるものの正体も分かっている人は分かっているはずです。
それぞれ個性があってかつ個性ある全体を一としての全体が構成されているのが、平和で協調した本当の社会だと思うのですが、みな金太郎飴みたいにしたいのか、またはある特定の管理者が管理している仕組みが必要だ、と言う思想が正体でしょうね。 宗教とか文化、文明とか民族特性とか社会科学とかいろいろありますが、歴史に学べはその答えは出てきそうです。

そして考えていくと残念ながら、慈悲とは到底遠い思想がベースになっているとしか思えません。人間は獣でもあまりしない同族殺しが大好きな生き物で、時々人間やっているのが嫌に成ります。 それは自らの信じる神の栄光のためとくらい思わないとやってられない、と真剣に思います。 そして人間は良いも悪いも暴走するみたいです、環境の奴隷なんですと、ささやかに自分を慰めています。