揺れる無

2019年8月22日

この前、死んだらどうなるのか、でよく「無になる」という人が現在は多いので、刹那的な人間になって行動が荒くなるな、と思っておりました。 しかし、無から有にはならないですね。 と意見を述べた次第。
死んで無になるというのはまだしも、どうやって無から生まれてきたんですかねということです。
非存在から生まれると物理学はなりたたないが、ということです。

しかし、その後、この考えても一文にもならないことが心に引っかかっていて、さらに考えていくとそうだ”諸行無常”だ。 無常の無常が恒常ということもできるだろうとおもうので、変わらないものもあると一応おける。 論理学の限界。

それはさておき、ならば無を考えると、空の理論の龍樹がいうように(ちょっとあやふや。間違ったらすみません)、無無、有無、無有ともうひとつあったようだが忘れた、で、無としての無、有が無いつまり無、無が有るつまり無となります。 無が有る・・・うっすらと変だと思うようになります。

物理学とかでは、完全なる非存在、つまり物質も、時間も、空間も無いという完全なる無は考えられないようです。 ですから存在相の一局面、ある状態が無と言われているようなすべての始まであり終わりの、完全なる可能性の卵に閉じ込めれるかまたは膜にすべてがある”泡”のようなものかもしれません。

ですから無としての無と言っても、無が無として絶対ではなくて、ゆらゆら振動している可能性があります。 つまり無が限りなく無になるためには有が絶対的に必要であり、無と有は背中合わせで団扇の裏表みたいにくるくる回っており、誰かの認識、それは前の宇宙そのものか、によって突然に有の生成が始まるということ。 有も無がないと状況が形成できない、のではと思います。

そして”誰か”が認識して初めて存在は存在としてある、というのが現在の物理学の定見ですので、そのだれかとは、一番簡単に言えば、神でしょうか。 インド思想ならブラフマン。 日本ならば、天之御中主神だろうか。

ブラフマンはこの世の一切が無に覆われていたときに、一人他の影響無しで独力で自らを自らとしたいと願い(意志がある)、漆黒のそこに有の卵を置いた・・・と昔日記に書いたことを思い出しました。

というような言葉遊びでした。

それで、死んだらどうなるかですが、その性質に適した世界に行くんでしょう。 そういえば、三途の川の三とは、地獄、畜生道、餓鬼道の事。 ようするに川にながされなきゃあ、良いらしいです。 足腰を鍛えるか一級船舶免許を取って船を操舵して一気に彼岸まで到着か。 冗談です。

生まれてきているから、その辺は時と場面がくれば思い出すのではないでしょうか。

そんなことよりも毒矢を抜け。